2015年9月27日日曜日

歴史に残る名演説 9月18日枝野幸男衆議院議員による内閣不信任決議案 主旨説明

9月16日の横浜地方公聴会の直後に安保特別委員会の鴻池祥肇委員長がクーデター的に、いきなり(そのまま採決に至る意図での)総括審議を招集された時から、参議院はもちろん衆議院でも、所謂引き伸ばし戦略であるフィリバスター討論が始まりました。

17日参議院安保法案特別委員会では
 民主党・福山哲郎議員の鴻池委員長不信任動議趣旨説明、
 民主党・大塚耕平議員による賛成討論、
 生活の党と山本太郎となかまたちの山本太郎議員による賛成討論、

18日の参議院本会議での鴻池委員長問責決議案の
 民主党・白眞勲議員による提出理由と主旨説明。
 民主党・小西洋之議員による同趣旨説明。

など、30分40分を超える、単なる引き伸ばしではない、名スピーチが多かったのですが、18日午後衆議院本会議安倍内閣不信任決議案提出理由を述べた、枝野幸男議員の演説は、1時間44分に及び、圧巻でした。これは、全野党からの安倍内閣に対する不信任を突きつけるための、代表としての主旨説明です。

その長さもさることながら、内容の素晴らしさと、流れるような語り口に、しばし、3.11のときの「(放射能は)直ちに影響はありません」に対しての怨嗟は少々脇において傾聴する価値があると思います。

こちらがその動画です。他のことをしながらでもいいので、できれば1時間44分、聞き流してみてください。最後にはもっと聴いていたい、と終わるのが残念になるような聴き応えのあるスピーチでした。
安倍内閣不信任決議案から ~枝野幸男議員~

なんとこの大演説を速記録が出る前に、書き起こしてブログ掲載してくださっているのを発見。

こちらです↓
2015-09-20
【安保】「この国の立憲主義と民主主義を守るため、安倍内閣は不信任されるべき」――民主党幹事長・枝野幸男氏の演説(全文)
[NIPPONIA ARCHIVES日々のニュースを記録していくよ]

ぜひ全文目を通して頂きたいですが、聞き流していたネット視聴者たちを唸らせ始めた、立憲主義についてのくだりだけ引用させて頂きます。(勝手に改行追加と文字強調を施しました。)

 ●民主主義は立憲主義とセットで初めて正当化される[26:12~] 
 おそろしいことに、東京大学法学部をお出になられた[磯崎]総理補佐官が「立憲主義を大学では教わらなかった」とTwitterか何かで書かれています。ちなみに言うと、何ももっともレベルが高いと思われる東京大学法学部で習わなくても、立憲主義というのは中学校の社会科で教わります。

まさに権力は憲法によって制約される権力者は憲法にしたがってその権力を行使しなければならない、これが立憲主義であります。まさに内閣総理大臣たる者、この立憲主義によって拘束される忠臣であります。もちろんわれわれ国会議員も、その権力の一端を一時的にお預かりをする者として、憲法に縛られ、憲法に反する法律を作らない、そのために努力をするという責任を負っています。

立憲主義をもって「それは王様の時代の、王様の権力を制約するためのものだ」――こんな、あえていえば、この話自体が一世代前の話と言っていいかもしれません。こんなすごいことをおっしゃっている方もいて唖然としました。 
確かに歴史的には王様の権力を制約する、そのプロセスの中で立憲主義という考え方、それが広まり、あるいは鍛えられてきたという、そういう側面が歴史的にあるのは間違いありません。

いわゆる王権以外の権力は憲法に服さなくていいのか。そんなことはありません。まずそもそも、私たち国会議員がお預かりをしている「立法権」という権力、それは何によって与えられているんですか、預かっているんですか。内閣総理大臣の権力、それは何によって与えられているんですか。

「選挙」と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかありません。その前提があります。選挙で勝った者にこういう権限を預ける、選挙で勝った者にこういう権力を行使させる、そういうことを憲法で決められているから、選挙で勝った者に一時的に権力が預けられている。 
同時にその憲法は、無条件で権力を預けるのではないこういうプロセスで誰に預けるかを決めることを規定していると同時に、その権力者はこういう規制の中でしか権力を使っちゃいけないこの両方を憲法で決めてセットで私たちは委ねられているんです

この筋から言っても、王権ではない権力だといえども、私たちが預かっている権力そのものは、同時に日本国憲法によって制限された中で付託をされている選挙で勝ったから万能ではない、当たり前のことじゃないですか。

しかも「民主主義」というのは、戦後日本においては、民主主義の重要性がある意味で若干偏ったかたちで強調されすぎてきたのかもしれないと思うところがありました。

立憲主義とセットになって、初めて民主主義というのは正当化されます。なぜならば、民主主義は決して多数決主義とイコールではありませんが、多数の意見にしたがってものを決めていこうという考え方であること、これは否定をしません。 
しかし、多数の意見にしたがってものを決めていこうという考え方は、それだけでは決して正義ではありません。なぜならば、多数の暴力によってこそ、少数者の人権侵害というのは生じるからです。

常に多数でものを決めればいい、多数意見が絶対なんだということであったら、あなたも私もみんなこの社会において安心して生きていくことはできません。 
今は、それは自民党のみなさん、国会の中で多数、われわれは少数かもしれないけれども、国家全体ということで考えれば、今こうして元気に健康で仕事をさせていただき、こうしていろいろとお訴えをさせていただける少数野党も含めて、ある意味では人生のさまざまな側面において、われわれは多数の側に立っています。

しかしながらたとえば、難病に冒されている方、怪我を負って、障害を負っておられる方、たとえばいろんなかたちでその側面を見れば、少数の立場に立たれている方、世の中にたくさんいます。 
そして、みなさんも私たちも、今はそうとうの側面で多数派かもしれないけれど、常にある側面を切り取れば少数派である。 
あるいは人生のいろんな側面において、たとえば不幸にも重い病気にかかったり、事故に遭ったり、常にすべての人間、少数派になることがありうる。少子高齢社会、高齢化が進んでいる社会とは言いながらも、人間歳をとっていけば、歳をとって体が自由にならなくなる、これはやはりそうは言っても少数者でしょう、誰もがいずれそうなる。 
そうした時に、民主主義、多数で決めることが正義であるというその側面だけを取り上げたら、常に自分が少数の側に立った時に多数によって何をされるかわからない、これでは誰も安心して暮らしていくことはできません。

だから民主主義というのは、憲法によって「少数者の権利」というものをしっかりと守る。「民主的なプロセスで選ばれた権力といえども、ここは絶対やってはいけないんだ」「こういうことはやってはいけないんだ」そういう縛りをかけておかなければ、民主主義は少数者に対する迫害になる。 
だから民主主義と立憲主義というのはセットなんです。こんなこと世界の常識です。

本人の了解を得ていませんから、「とある」と申し上げたいと思いますが、とある憲法学者の方が――この集団的自衛権の話のもっと前です――3分の2の国会の要件をはずすという裏口入学の憲法改正から入っていこうという試み、企てがなされたそんなころ、お話をしていたら、「自分は立憲主義の重要性を十分に伝えてこなかったことに忸怩たる思いがある。立憲主義というのはあまりにも当たり前すぎて、しっかりと伝えてこなかった、そのことに忸怩たる思いがある」というふうにおっしゃっていました。

安倍総理大臣は歴史に残る仕事をされたと思います。この国に、いかに立憲主義というのが重要か、そのことを当たり前すぎていかに忘れていたか、そのことを私も含めて多くの人たちに知らしめた、この限りにおいてはたいへん大きな功績だと私は思います。

 ●「解釈」には一定の幅がある 
 立憲主義の破壊というものがいかにおそろしいか、これは歴史も私たちに教えてくれています。他国ドイツの話だけではありません。戦前日本が泥沼に陥っていったプロセスにはいろんな節目があったと思います。

まず申し上げておきたいのは、私たちはともすると戦前、戦後と分けて、戦前がずっと暗黒の時代であったかのような印象をもっていらっしゃる方、あるいはそうしたことをおっしゃる方もいらっしゃいますが、私はそうは思いません。 
あえて申し上げれば、大日本帝国憲法、明治憲法もあの時代の憲法としては、私は世界史的に見ても、そうとう進歩的な、優れた憲法であった側面があったし、だからこそ普通選挙運動などを経て、大正デモクラシーという、そういう時代が築かれたりしました。 
しかしそれが道を誤っていった、これを憲法史の側面から捉えた時、やはり憲法解釈の一方的な変更、これが一つの分かれ目になっていると思います。

一つは天皇機関説です。先ほど圧倒的多数の憲法学者、あるいは裁判官、法制局長官、たくさんの人たちが「こんなもの憲法違反だ」と、これを一顧だにしない今の政府の姿勢をお話をしました。 
戦前、明治憲法において、天皇機関説は圧倒的通説でありました。美濃部達吉先生の特異な説ではない、当時の通説でありました。 
ところがある時、この天皇機関説に対して、「天皇陛下を機関車にたとえるとは何事か」というあまりにも低レベルな批判で吊し上げ、この天皇機関説を、専門家が圧倒的に通説としている天皇機関説を、排斥をしたんです。日本が曲がり角を間違えた、そんな時期と重なります。

もう一つ、戦前の軍部の問題として、統帥権の独立が挙げられます。確かに憲法の規定上、はじめから統帥権は独立をしています。しかし、同時に「統帥権を有する天皇陛下の大権は、内閣の輔弼(ほひつ)に基づいて仕事をする」と明治憲法は定めております。 
ある時期まではしっかりと、内閣の輔弼を受けた天皇大権としての統帥権が独立をしているということであって、決して内閣と無関係に、勝手に軍が統帥権に基づいて行動していいと、そんな解釈や運用はされていませんでした。 
まさにこの解釈がいつの間にか勝手に変えられていて、内閣の言うことなんか聞かなくてもいいと解釈が変わり、運用が変わり、その中で――まさに今日、まったく同じ日に満州事変が勃発したと申し上げました――こうした軍部の暴走へとつながっていったのであります。

こうした立憲主義を否定をする、そうした政府は、とうてい容認されるものではないこの一点をもってもこの内閣は不信任に相当すると申し上げなければならないと思っています。

ちなみにこの憲法論を言うと時々、「いや憲法学者は、自衛隊違憲論が昔多数だったじゃないか、そんな中で政府が決断して、自衛隊を『合憲だ』と言って、だからよかったじゃないか」――こういうことをおっしゃる方がいますが、本当に底の浅い議論ですね。

解釈にはいろんな次元と段階があります。新しいルールが設定されて、白地に新しい解釈をする時、その時には当然、憲法であれ、どんな法令であれ、どんなルールであれ、解釈には一定の幅があります。その幅の中で、許容される幅の中で、どの解釈を選択をするのか。ここには価値判断が入ります。 
「価値判断が入る」ということは、政治の責任で判断をするということが入ります。日本国憲法ができ、憲法9条についての解釈が確立していない段階で、自衛隊まで、個別的自衛権まで、この憲法で容認できるのかどうか、それともそうしたことまで駄目で自衛隊は違憲なのか、幅のある解釈の中で、白地に初めて解釈するにあたってはまさに、価値判断を政治の責任で行う、それは解釈論として正しい姿勢であります。

しかしながら、この「個別的自衛権は合憲であるけれども、集団的自衛権は憲法違反である」という解釈はすでに30年、40年の月日を経て、確立した解釈になっているということです。確立した解釈を変えるにあたっては、まさに従来の解釈と論理的整合性と法的安定性が問われる、これもまた当然のことである。

白地に初めて解釈をした時の話と、今確立した解釈を変更する話とを一緒くたにしていること自体で、この憲法論を語る資格はないと申し上げたいと思っています。

今回の解釈変更安全保障法制が、立憲主義違反憲法違反だということは、ある意味で先ほど申し上げた立憲主義をご存じない礒崎首相補佐官が自白をされています。 
「考えないといけないのは、我が国を守るために必要な措置かどうかで、法的安定性は関係ない」と言い放ちました。しぶしぶ撤回をされましたが、安倍政権の本音そのものじゃないですか。だから磯崎補佐官をトカゲの尻尾きりできずに擁護し続けたのではないですか。

憲法を頂点とする法秩序の安定性よりも、政権のその時の意向判断を優先する姿勢は、立憲主義どころか法の支配を否定するものです。法の支配を否定するような政権の存続は危険きわまりない。しかも安倍総理が海外で、法の支配を強調しているというのはブラックジョーク以外の何物でもありません。

「何が必要か」という判断は人によって異なります。したがって判断者によって結論がころころ変わることになります。判断者によって結論がころころ変わったのでは、社会は成り立ちません。お互い安心して暮らしていけません。だから法的安定性というのが求められているんです。

「必要か否かを優先する」というのは、一見もっともらしく聞こえる側面があるかもしれませんが、必要か否かを優先したら、ころころ結論が変わって、安心して暮らしていけないから法的安定性なんですから。そんなこと言ったら、法的安定性を求める根拠自体がなくなってしまいます。これは決して難しい法律家の議論ではありません。社会としての当たり前の常識です。東京大学法学部で立憲主義を習っていなくてもわかるはずです。

地方公聴会の公述人である水上弁護士も強調されていましたが、民主主義は多数決主義ではありません。(参照:IWJ 【全文文字おこし掲載】「公聴会は採決のための『セレモニー』か」――地方公聴会で釘をさした公述人・水上貴央弁護士が「米国の支援のためにわが国の安全を犠牲にした法律」と喝破!

多数決という数の暴力を極限まで避けるために、話し合いをする。少数意見を尊重する。こうしたことが、民主主義では非常に重要なのに、私たちの大半は「多数決」という原則しか学んでいません。これは文科相による学校教育で意図的になされています。

為政者は本質的に国民に何を求めるか。安倍内閣ほどそれを極限までわかりやすく見せてくれたことはありません。学校教育とマスコミは疑ってかかるところからスタートして丁度いいわけです。







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