高濃度ビタミンC点滴療法やビタミンCの効能について、6月1日の記事「震災直後からわかっていたビタミンC摂取による被曝の克服」から何度かとりあげてきました。まもなく家族が予防ではなく治療のためにそれを必要とするとは想像もしていませんでした。
その数日後の6月7日、健康優良高齢者(?)の見本だった父が軽い失語症や記憶障害のため心療内科を母と来院。そこから紹介された脳神経外科病院での診療は私も付き添った同月20日。MRIとCT画像で、肺癌からの脳転移の腫瘍で夏を越せるかどうかわからない、長くて1年との診断。両親が先に退出した診療室で告知を最初に聞いたのが私でした。
当ブログの前回投稿日時をみて、なぜそれまでに読まなかったのか死ぬほど悔やまれる本が水上治先生のこの本、「超高濃度ビタミンC点滴療法」。臨床医として実際の症例やその歴史を綴られ、具体的に目安となるコストや通院期間、頻度の変化なども出てきます。個人差は非常に大きいですが、それでも週最低2回の点滴を20〜30回受けて効果が見える人が多いなど参考になります。(8月17日というのは悪魔が棲むような病院に単に介護支援を求めて父を入院させてしまった日でした。)
原発事故前から2人に1人が癌になり、その大半が(標準医療では)完治しない時代であれば、自分自身の目の前にあるリスクとしての認識が必要でした。予防で済まず治療となった場合の具体的コストや期間の目安など。
点滴療法研究会の柳澤先生たちのお話以前、2、3年前に、私は既に高濃度ビタミンCの点滴で末期癌が完治した例を知っていたので、父の言語障害や右半身の麻痺が進行し始めたときに、母の了解を得て家から一番近いクリニックを検索し、父の高濃度ビタミンC点滴のための通院が始まりました。内部被曝の可能性もあったと思います。大腸にも多少影が見えており、そこからの転移もあり得ました。
ビタミンCの摂取は例え病気を治さなくても全身に非常にいい効果が多いのですが、がん細胞を殺すには50g以下の投与では成功例が殆どなく、50~125g投与するようになって、ガンの進行をストップさせたり、完治したりという例が出て、20~30回の点滴で効果が見えてくるとのこと。(最短2ヶ月で変化が出るという話も別途聞いたことがあります。)
ビタミンC(=アスコルビン酸)は血中で飽和状態になるまでは栄養剤ですが、飽和状態に達した時からガン細胞を殺す「薬」となるのです。しかも正常細胞に対しては栄養剤としての効果は変わらないまま。むしろ免疫力は向上。鎮痛効果もあり。
父が通ったKクリニックでも早い人の場合、75g投与で血中濃度が十分、抗がん作用に効果的な飽和状態に達するとのことでした。点滴終了直後の血中濃度が1デシリットル中350〜400mg以上を維持できているかどうかが飽和状態の目安になります。(実際の血液検査結果は単位がμg/mLなので4桁表示でした。)
点滴療法研究会の柳澤先生たちのお話以前、2、3年前に、私は既に高濃度ビタミンCの点滴で末期癌が完治した例を知っていたので、父の言語障害や右半身の麻痺が進行し始めたときに、母の了解を得て家から一番近いクリニックを検索し、父の高濃度ビタミンC点滴のための通院が始まりました。内部被曝の可能性もあったと思います。大腸にも多少影が見えており、そこからの転移もあり得ました。
ビタミンCの摂取は例え病気を治さなくても全身に非常にいい効果が多いのですが、がん細胞を殺すには50g以下の投与では成功例が殆どなく、50~125g投与するようになって、ガンの進行をストップさせたり、完治したりという例が出て、20~30回の点滴で効果が見えてくるとのこと。(最短2ヶ月で変化が出るという話も別途聞いたことがあります。)
ビタミンC(=アスコルビン酸)は血中で飽和状態になるまでは栄養剤ですが、飽和状態に達した時からガン細胞を殺す「薬」となるのです。しかも正常細胞に対しては栄養剤としての効果は変わらないまま。むしろ免疫力は向上。鎮痛効果もあり。
父が通ったKクリニックでも早い人の場合、75g投与で血中濃度が十分、抗がん作用に効果的な飽和状態に達するとのことでした。点滴終了直後の血中濃度が1デシリットル中350〜400mg以上を維持できているかどうかが飽和状態の目安になります。(実際の血液検査結果は単位がμg/mLなので4桁表示でした。)
残念ながら父の場合、転移した腫瘍の進行が早過ぎて75g投与でも活性酸素による消耗が激しく、血中濃度が抗ガンに効く飽和状態にならないという血液検査結果(277mg/dL)が出たため、100g投与へ移行。100g点滴の5度めの来院で、クリニックのお盆休みで1週間空いてしまうことに。本来なら効果を保つために最低週2度の点滴が必要 orz...。しかもまだ100gでの点滴後のVC血中濃度の検査をしていないままでした。(ずっと後になってもっと体調悪化していた時でさえ100g摂取なら血中濃度429mg/dLで父には十分だったことが判明。週2、3度の通院を続けていれば腫瘍が消え始める可能性は大いにありました。)
盆休み中断時に、それ以上の通院を母に反対されたまま反論できずに諦め、1包1グラムのリポ・スフェリックのビタミンCサプリを数時間おきに摂る経口摂取に戻らざるを得ませんでした(当ブログのサイドバーてっぺんのサプリご参照)。頻度は大幅に増やしはしましたが。
私が過去に読んだ本は末期癌を克服した医師ご自身が書かれた本で、一般の患者の具体的症例が記憶になく、ただ点滴療法研究会の柳沢厚生先生らの動画から学んだメカニズムを元に、抗がん作用だけでなく全身の免疫力最適化などの効果を理論的に強く信じているだけでした。
私が時間をかけて収集してきた情報を見るのも拒否する身内にとっては重度障害で生き長らえる"惨めな"末期しか頭に描けなかったのです。(一般の癌のイメージはマスコミとマスコミ信者らの口コミの情報だけで作られているわけです。)
保険がきかない自由診療は1回当たりが高価であることに加え、どれくらいの期間続けると効果が出るのかまだ症例を十分知らず、また、大量点滴は(その日だけとはいえ)頻尿を伴うので、私たちの無知のせいで、右半身の麻痺が進行し始めた父はトイレに間に合わないことが出始めました。これは実は健全なことで、ある意味いいサインでもあったのですが、母には障害がより重度になっていくような印象を与えることになりました。「とうとう下の世話まで」と。
(翌週、介護側のやむを得ない事情で入院させたF救急病院で強制された絶食中に父は肺炎と共に尿が止まって激痛を伴う前立腺肥大を併発したのですが、元々やや頻尿だった父の尿の出が少なくなり始めたのも最後のビタミンC点滴効果が薄れる頃と一致。
一方、言語障害と並行して時計が読めなくなっていたのですが、ビタミンC点滴通院中に時計の文字盤が再び認識できるようになり、私達の怠慢で止まったまま放置していた父の書斎の時計の電池交換を指差して声で要求しました。今思えば、ビタミンCがその箇所のガン細胞駆逐に効き脳細胞が復活した可能性が高いと思います。並行して少し通ったリハビリの言語療法も無視できませんが。)
「超高濃度ビタミンC点滴療法」を(何故か今ごろ)読んでいて解ってきたのは、たった数回で盆休みに屈して止めたのは後悔しきれないけれど、経口摂取であれ点滴であれ、たとえ十分な期間でなくてもビタミンCの大量摂取を行なって本当によかったということ。本来の肺癌や脳腫瘍が父にもたらす筈の苦しみが、(たまたま脳内の該当箇所が麻痺していたと理由だけでなく)非常に抑制されていて、多くの時間を明るく前向きに過ごすことができたことです。脳外科医はパニックになるはずの箇所も一緒にやられていると言いましたが、その頃はかなり軽症だったし、喜怒哀楽の感情はその後もずっと持っていました。実際、4度声を上げて大泣きしています。でも回復に向けてずっと前向きでした。
これは30代終わり頃から40年かけて体を作ってきた父自身の生きる姿勢も大いにあったと思います。後期高齢者とはいえ身体年齢は常に10歳以上若く、人より健康と自負していたはずの人間が2か月足らずで重度障害者になり、喋るのも書くのも歌うのも大好きだったのに、耳が聞こえて理解できても答えられなくなり、それでも病院の抗生剤の副作用でボロボロにされるまでは、本当によく頑張りました。病床でも自分の左腕と背筋で座骨の上に座っている状態をキープするリハビリを意識が続く限りやりました。でもビタミンCがそれを後押ししてくれたみたいなのです。
ビタミンCでは終末期の鬱症状がとれて明るくなり、その後心身ともに完治した人もいるほどで、精神的な作用のメカニズムも将来解明されるかもしれません。
父の場合、元々笑いのツボが人とズレていて天然で笑いを誘うことは度々ありましたが、こんな性格だったかしらと思うほど、麻痺が進行しつつも自宅療養した約2ヶ月間、一緒に沢山笑ったんです。小脳がやられしまったせいで、日常の習慣に支障をきたし、食事の時にこぼしまくったり、食べる筈のものが入った器を持ち上げて飲もうとしそうになったりしたのですが、真っ先に吹き出して、一番面白がって笑っているのが本人なので、私も母も一緒に3人で笑いがとまらなくなったりすることが何度も。今となっては、あれはビタミンCが脳内の笑いのツボを活性化してたのかと思えます。
[追記: ビタミンCの分子は血管-脳関門を通過できるだけ十分小さいので、脳内であっても、ビタミンCで腫瘍を減少させることにより元の機能を回復させることは、進行ガンでも可能です。ただし、十分な量を十分な期間投与することさえできれば。途中で点滴をやめていなければ、まだ機能していた細胞はそのままで、不全になっていた細胞は再度活性化した可能性は大いにありました。]
父の介護生活中の家族や業者への連絡のためなどの連日のメール・電話番号記録や、入院前から撮っていた写真などをチェックしていると、ビタミンC(およびケイ素サプリのウモプラスなど抗酸化物質)をなんとか摂取できていたときと、標準医療(保険診療)以外の措置を軽視するの医師らのためにそれが不可能になっていたときで、父の健康に重大な変化があったことがわかってきました。(詳細はいずれまた。)
この国の司法が弱者の味方であるなら告訴したいほどの入院先であったF病院では末期患者活用術とでも命名したい人体実験し放題の仕打ちを受けており、2週間後にやっと自宅に連れ戻したときには表情筋さえ動けない植物状態にされていました(これに関しても詳細は後ほど)。
が、退院の帰路で再度受けさせたビタミンC点滴のお陰で、一部の未熟な看護師らの吸引練習によって「作られた」2度目の肺炎は、自宅での体位調整で気道に戻したピンクベージュの粘液を自力咳き込みで出して完治。最後の黒ずんだ血の塊も私が濡らしたガーゼを指に巻いて喉の入口から取り出しました。入院2週目(MRSA用の抗生剤点滴開始直後)からしょっちゅう繰り返していた39度前後の高熱と首・左腕の痛ましいほどの痙攣はピタリと止み、呼吸が安らかになりました。
(入院中も一度だけKクリニックで購入したビタミン点滴を担当医の便宜で割込ませ、肺炎は同様にほぼ自力で完治していたのです。薬慣れしていない体に大した栄養剤も与えず肺炎用の抗生剤を点滴されるようになってからは朦朧とした中で辛い吸引を自ら求め続ける気管の苦しみが続いていたのに、それを拒否して咳き込んで完全に痰を吐き出し終っていたのです。が、この措置に協力してくれた担当医を外し、自分が主治医になると宣言した若い院長は「現代医学の常識では考えられない」といって院内でのビタミン点滴だけでなく、一旦許可が出ていた外出まで妨害し始めました。その間、一度も患者の顔を見に来てすらいません。)
退院直後のビタミン点滴から5日め、血中ビタミンCが切れ始めていた水曜から木曜にかけて、MRSA(黄色ブドウ球菌)対策剤の副作用が勝ってきたのか、あちこちの筋肉がげっそり落ち、右腕は一夜にして骨と皮の皺だらけ状態に。その後出た壊死とは全く異なり、本当に筋肉が血中に溶解した化学反応としか思えない変化でした。脳腫瘍のための麻痺程度ではあり得ないはずです。(父が回復したときのために廊下やトイレ、浴室のてすり取り付けなどに来ていた業者さんが「突然お痩せになりましたね」と言ったほど。)
退院の日から来て貰っていた24時間連絡可能な訪問看護師さんたちとその手配をしてくれた主治医(循環器内科)は保険診療だけの人たちなので、自由診療である高濃度ビタミンCの輸液を間に入れて貰うと混合診療として違法になるためお願いすることができず、看護師の資格を持った人が周囲にいないか必死で探しました。昔はこんな規制はなかったそうです。代替医療は自然治癒を重視する効果の高い療法が多いので、患者ではなく保険医を守るための法律です。
自分以外の人の体に針を指す「医療行為」が素人がやるとNGなわけです。点滴液の交換や、1日の終わりにビニール針を刺したままの状態で止める「ロックオン」は私が習ってやってたわけですが。
やっと自宅ビタミン点滴のための合法的解決策を思いついたのは水曜夜。(自分たちが購入して使っている点滴チューブに、別の医師の指導で何を繋ごうがこちらの勝手。)でも介護交代の合間に行けるKクリニックは木曜が定休日。金曜になってから寝不足のままKクリニックに車を飛ばし、自宅ビタミンC点滴用の輸液を買ってきました。ちなみに混合診療の合法性確保に関しては医師会の中でも分かれていて諸説あります。
最後の点滴から5日経ってしまって血中濃度、つまりビタミンCの効果は急速に落ちているはずでした。(追記: 点滴で入れたビタミンCが効果を発揮するのは最初の12時間とも言われます。絶食強要のため飲食できなくなった闘病中の父は、毎日健常者が必要とする「食事プラス2グラム」の数十倍のビタミンCが点滴で必要だったのに、それもゼロにされてしまったため、既に体内に残るビタミンCを全て消耗し始め、壊血病を起こしていたと思われます。右半身の肉が突然削げ落ち、血管も潰された状態になったのは腫瘍では説明がつきませんがビタミンC欠乏なら簡単に説明できます。)
午前中に訪問看護師さんが入れてくれた通常の水分補給用点滴(栄養素はブドウ糖のみ)は、父の血管はもうあまり受け付けなくなっていて、私が帰宅する頃には終わりかけているはずのパックが、まだ1割も落ちておらず、それがある程度入るまで時間がかかりました。1日の最初は(本当なら止めて欲しかった)抗生剤の点滴なので、ビタミンC点滴は直後でないほうがよく、仕方なく通常の水分輸液を先に入れる必要がありました。
輸液をビタミンC点滴用に変えた途端、左腕に固定された同じ針先から体がそれをぐんぐん吸い始めました。乾いた土が雨水を吸収するかの様に。2週間F病院で点滴され続けて血管が見えなくなっていた右手ほどではないものの、湿って黒ずみ始めていた左手は元通り健康なピンクがかった肌色になってつるつるに。紫斑が出始めていた左足も、マッサージしているうちに同じく健康なピンク色に。静脈点滴なので、このまま心臓から全身の血管へビタミンCがたっぷり運ばれるはずでした。肺癌のそばに出来た胸水を潰すために右半身を高くした体位維持のため、血流が今ひとつでしたが、胸やお腹はまだ艶があってすべすべでした。
7月から言いたい事があってもほとんど喋れなくなってきていたけれど、たくさん延命できなくても、言いたい事を少しでも言い残して、笑顔を見せて、満足して安らかに逝けるのではないかと思いました。私はまだこの時点で完治もあり得ると思っていました。それほどに、血管が残っていた側の肌は健康だったのです。
母と交代で2日のうち1日ほぼ徹夜、2日併せて平均睡眠時間6時間ぐらいの介護生活が始まって、この夜初めて私は熟睡しました。ビタミン点滴も通常の水分点滴も終えたあと、父の息づかいはまだ時々荒かったものの、苦しむ様な呻きはなくなっていました。日付変わって8日午前2時過ぎまで見守って安心して母に介護をバトンタッチ、午前10時前に起床。父の呼吸はまだ時々荒く、右手にはもう血管は消滅していたようでビタミンが通った形跡はなく、両足はむくんで紫斑が出ていました。でも私は諦めきれずにマッサージを続けました。
午後12時過ぎ、「お父さん、頭の汗ちょっと少なくなってきたかな」と言いながら拭いていると、父がゴクリと3回大きく唾を飲み込みました。入院中の連日の吸引で気管支を出血のかさぶただらけにされていたので、それまではこれは、いいサインでした。「そうそう!!唾が上手く飲み込めた!!」と私が喜んでいるときに父の呼吸が止まったようでした。脈をとる要領がわからないので、鼻や口の前に手を当ててみましたが、もう息は感じられませんでした。なんとなく信じられずにあちこちマッサージしてみましたがダメでした。父はまるで私が起きるまで息を引き取るのを待ってくれていたようでした。
まだ「そぅ」とか「なぁ」ぐらいは言葉を発することができていた8月前半ごろ、「言葉が出ないのが一番辛いね」とか(見舞いや介護支援に来てくれた人が帰るとき)「ありがとうが一番言いたいのにね」と私が言うと、本当に切なそうな表情をして弱々しい声で「そぅ」と肯いていたものでした。
父も人生の多少の番狂わせぐらいは覚悟できていたかもしれませんが、そして、したい事を十分やり尽くしてきた人生だとは思いますが、最後に言葉代わりであった表情さえ奪われ、家族との会話の時間を奪ったのは病院が必要もないのにぶちこんだMRSA対策剤による副作用、そして激しい酸化ストレスだと私は思っています(繰り返しますが後ほど詳述します。この国の司法がまともでさえあれば許されないような不要で危険な事を虚偽の説明で署名させられて実行されたのです。実は末期患者と家族によく起こっている社会全体の問題です)。
が、最後の瞬間は父は少なくとも非常に安らかな顔をしていました。表情筋を潰されたせいもあったかもしれませんが、呼吸が止まる瞬間は、2度目のCT撮影後にどの医師も警告していた通り「脳幹まで腫瘍が転移しているので、突然呼吸が止まることがあるかもしれない」という、まさにその状態でした。腫瘍による麻痺だけであれば苦しまずに逝けるというのは本当でした。肉体的苦痛も気持ちの落ち込み(大泣き)も免疫力低下を防ぐ手段を断たれていたときに起こっていました。表情筋が動かなくても、声が出にくくなっていても、ビタミンC点滴を行なう前までは、見ていて辛くなるような呻き声を何度もあげていて、口内もわずかな擦れで出血するほど弱っていました。
呼吸は時々荒かったものの、ビタミンCが体に充填された後はやはり安らかでした。表情筋が侵されていなければ、自宅から通院していた頃のように笑顔が戻ったことと思います。実は、その最初で最後となった自宅でのビタミン点滴中に、Kクリニックから電話で朗報が入り、1週間前のF病院退院の日の点滴後の血液検査結果が429mg/dLという十分な数値であることを知らされました。VC100g投与だと活性酸素によって消耗しない、つまりガン細胞を除去できるレベルということです。目の前に横たわっている父は2週間の人体実験で急激にやつれたとはいえ、40年かけてこつこつ作ってきた骨や筋肉が詰まった体でした。私には希望を持たずに一般医の言う事だけを丸飲みする人たちのほうが不可解でした。
(ちなみに、父は往診してくれた地元主治医の予告通りに、退院後どんびしゃ一週間後に亡くなりましたが、これにはトリックがあります。ビタミンC点滴(合計700mL以上の輸液)のタイミングや標準点滴との組合せをKクリニックの医師《元心臓外科医で現在も保険診療やリハビリも運営》に尋ねて気づいたのですが、毎日の点滴の水分量が飲食不能になった人間が本来必要とする量の半分にしてあったのです。主治医の考えではそれが患者と家族への「慈悲」だったのかもしれません。が、最初から最後まで希望を捨てていなかった私としては先端医療を学ばず自分の専門性に溺れる医者というのは人の命に対して傲慢だと思います。少なくとも、こちらが最初から高濃度ビタミンCについて、余命宣告された家族の話をしているのに、一度もこの普及しつつある先端医療について学ぼうとはしてくれませんでした。しかもビタミンC点滴をしてくてていたK医師は知人であり、話をすると言っていたのに。)
水上治先生は、少しでも希望を持ちながら死んでいく人の顔つきは、絶望して死んでいく人と全然違うと書かれています。告知の仕方には医者の数だけ考え方もそれぞれあると思いますが、私が最後の医師を選ぶ必要が出たときには、水上先生のように常に新しい医療にも心を開き、患者や家族と対等な立場で本音で付合おうとする人にお願いしたいと思います。(本書には症例データだけでなく、水上先生のような立場をとる医師らの生き様や考え方、ライナス・ポーリング博士をはじめとするビタミンC効能提唱者らが受けてきた迫害の歴史も描かれています。)
保険がきかないとはいえ、自由診療は決して富裕層だけのものではありません。現在、生保や損保にかけているお金を共済などの掛け捨てに替え、預金など現金や換金性の高い資産で準備すれば、平均的世帯なら支払うことは可能です。保険適用の抗がん剤治療を並行して受ける場合には、そちらだけ高額医療の支援制度を使うことも考えられます。第一、保険適用できても「標準医療」の3大療法をがんセンターで受けることになれば、平均で自己負担額が150万円もかかる上、7割の人に副作用と再発がお約束でついてきます。
(樹上細胞ワクチンなど他の点滴療法などの先端医療も正常細胞を傷つけず副作用や再発リスクがほとんどないですが、時間との競争を覚悟できるならビタミン点滴が比較的コストが低いと思います。何より支払いが1回ごとで済むので大金を前納する必要がありません。といっても100g投与なら現在一回23,800円ぐらいです。需要が増えれば数分の一まで持って行けるはずであり、多くの漢方薬以上の効果が出ているので保険適用すべきです。ビタミンCの製造コストは本来、一般薬物よりずっと低いです。)
保険会社の社員や元社員ならよく知っているはずですが、多くの生命保険は客にとってトータルでかなりの損になるし、ガン保険や通常の生保・損保のカバー範囲では正常細胞まで損傷し、副作用や再発が多い3大治療法(外科手術、放射線治療、抗がん剤投与)の治療費しか支払われません。ただし父の様に最初の症状が突然の進行性言語障害であった場合、自分の保有資産の額や預け先も解らなくなるので準備が必要です。個人情報保護法は時に諸刃の剣となります。
一番患者にとってより良い医療が保健適用にならないのは、多くの場合、薬事や医療利権が絡む既得権益層のためであり、日本の医師は特に製薬会社や医療業界からの情報に頼っているので、医療界そのものが医療ビジネスの餌食となっているようなものですが、水上先生や柳沢先生のように現況の改善に取りくむ医師も徐々に増えています。患者側も「お医者様信仰」を捨てて自分で情報収集して賢くならねばならないと思います。
7月半ば。ラジオ体操まで時間があるときは公園内を散策するのが習慣。
7月21日~8月10日の週3回ビタミンC点滴通院
8月11日、近所のリハビリ施設で普通に自力で歩く父。
右はこのチームを率いる理学療法士で父のラジオ体操仲間の先生。ここへ帰ってくるはずでした。
2週間の入院当初、ベッドのてすりに捕まって自力で立ったり軽い補助で歩けたりしていました。食事も普通食でスタート。そしてこの部屋での歩行が最後の立ち姿となりました。
同8時過ぎの食事中のムセと発作・痙攣後、ナースコール。
主治医不在と言われ夜勤看護師らだけで対応。
モニタルームへ搬送。絶食強要開始。午後10時半ごろ院内担当医に電話連絡がつきICUと呼ばれる雑居部屋で点滴開始。
(院内担当医は土日水以外の9時5時勤務のみと知ったのは退院直前。しかも外来優先。救急外来の経営で成り立っている病院では入院患者は優先順位が低いことを知りませんでした。後で取寄せた他院への紹介状ではムセも痙攣発作もすべて20日に起こったことにされており、肺炎は入院前からと思われるという表記。入院時の問診およびX線やCTスキャンの後の私への医師の話とも、詰め所から最も遠くモニタ不可能だった最初の病室設定とも矛盾。肺炎は病院が16時間以上も医師の問診さえ無しで放置した間に拡大。)
翌20日午後1時頃(前夜からこの時間まで医師の診察一切無しで"ICU"放置。理由は「左手が動きすぎるからCT撮れない」。無数の看護師が見に来たが、誰も前立腺肥大の可能性を疑わず。)
ポータブルレントゲン撮影。付添人や見舞客は「危ないから外へ」と言われ
カーテンの向こうの他の7床の患者はそのまま。(隣は軽い認知症らしき歩き回る40代くらいの患者さんでした。)
8時間「効果」が持続するというMRSA対策剤は、午前9時と午後6時に投与されこん睡状態におかれるため、父は毎晩午前1~2時に目覚めて翌朝まで苦しそうにうめき続け、24時間交替の付き添う私と母は1日おきに徹夜。以降、頻繁にナースコールしたのは連日深夜。激務の夜勤看護師らに負担が。
9月7日、最後の希望。100gのビタミンCが入った点滴。
9月10日
今年2月の写真を拡大。F病院入院後3日めまでこの健康な笑顔でした。
絶食させられ経口摂取していたビタミンCやケイ素サプリを断たれ、抗生剤を点滴され始めてから表情が消えました。体じゅうの筋力を奪われ始めていました。
抗生剤をバンコマイシンなどのMRSA対策剤に変更された直後からほとんど覚醒できず首が座らない植物状態になりました。
高熱と苦しさからくるうめき声だけはビタミンC点滴を再開するまで毎日続きました。