NHKはまたもや黙殺したという、昨日6月27日の各地での戦争法案反対デモ、というか反安倍政権デモ、報道ステーションやツイッター、Facebookなどを通して、この動きの拡大が日に日に明らかになってきました。
なかなか参加できないので、画像や映像のついた情報拡散で精一杯ですが、たまたまさっき流れてきた福田和香子さんのスピーチ、大いに共鳴できてしまったので書き起こしました。
たった9分のスピーチだと最初の原稿から色々端折ったのだと思いますが、それでも、今回の運動だけではなく、自分の意見を言うことを是としないこの国の慣習にうんざりしてきた者としては、よくぞ代弁してくれました、という箇所多しです。強調したいところを勝手に太字にしましたw
書き起こしここから:
みなさんこんにちは! SEALDsの和香子です。 いますっごい緊張してるけど頑張って喋りますので聴いて ください。よろしくお願いします。
先週の金曜日、毎週行われている国会前での抗議活動の様 子が報道ステーションによって全国に届けられました。 そこには、それぞれの思いをこめたプラカードを手にした 私の仲間たちの姿が映っていました。
私のスピーチもとりあげられていて、その場で口をついて 出てきた言葉をそのままマイクにつないだ姿に多くの反響 がありました。 続々届く友だちからの「報ステ見たよ。和香子、すごかっ たね」って言葉に、頬を緩ませたのもつかの間、インター ネットの狭いようでとっても広い隅っこでは、思わず画面 を閉じたくなるような罵詈雑言の羅列がなされていました 。
そんな人たちを尻目に私は、きょうもここに立つことに決 めました。なぜなら私は本気だからです。
私が皆と同じ制服を着て、毎日同じ方向に向かって座って 勉強していた頃に、空気の読めない人のことを指す「KY」 って言葉が流行りました。 その場にそぐわない発言をすると、どうやらそれに値する らしく、しかし、その他のどの流行りとも同じように、い つの間にかそれは死語になっていて、私だって最近、その 言葉が流行っていたことすら忘れていました。
しかし、路上に出るようになって最近になってやっと気づきました。場にそぐわない発言をする者が空気の読めない人なわけじゃないんです。 どうやらこの国では、意見をもつ行為そのものが「空気が読めない」ってことになってしまうらしいです。
これってどう考えたっておかしいですよね!?
少しでも真面目に聞こえるような話をすると、「ねぇ、重たいからやめてよ」って、「私はどうでもいいけど、あなたがそう言うなら、じゃあ、私もこうするわ」って…。 同じ衣服に身を包むのをやめたとき、初めて私はこの国の人がとても臆病であることに気が付きました。
アウトサイダーにはなりたくなくて、時にはその自分の脆さを隠すがために、社会的弱者に牙を剥く。 そんな人間の溢れかえった社会は例に漏れず、独裁的で、そして例外的に頭の悪い権力者を生み出すこととなりました。
特定秘密保護法が成立してから2年、集団的自衛権の行使容認がなされてから1年、いま、私たちは、政府が新しく作り出そうとしている安保法制に対して声をあげています。
巷では戦争法案と呼ばれるこの法案、「戦争なんて非現実的だよ」って私ももう何百回も言われました。
しかし、自衛隊の活動範囲が広がり、後方支援という名の下、他国の戦争に参加することが可能になる。「自分には関係ないわ」ってすました顔をしてられるのも今のうち。
多額の奨学金、数百万にものぼる事実上の借金を抱え、就職難と言われる中、社会に出ていく若者たちを、経済的徴兵制によって戦地へ送り込む。それはきっと、そんなに難しい話じゃないはずです。
私はもちろん、戦争経験世代でもなんでもないけれど、その世代がここまで繋いできた平和と呼ばれる日常の中で生きてきました。
70年間日本はどこの国とも戦争をしてこなかった。どんな眼の色も、どんな言語をしゃべる人にも銃口を向けるような真似はしませんでした。
戦争が一旦始まってしまえば、今まで常識だったものはそうではなくなります。 人殺しは正義とされ、流した血の量が多ければ多いほど、それは勲章として讃えられるでしょう。
自衛隊や徴兵された若者が、日本人としてどこかの国へ出向き、銃弾を放つことで、何にも拭い去ることのできない憎悪が彼らの血の中を流れます。
お隣の国、韓国に対してヘイトスピーチを繰り返す人々がいます。彼らは何度でも繰り返します。 「日韓条約でカタがついているではないか」「我々はすでに経済的な謝罪は済ませたじゃないか」と。
そうじゃないんです。 戦争が終わる時は、その国のお偉いさんが何かよく解らないような薄っぺらい紙に調印したときではないはずです。
私は2ヶ月ほどまえに辺野古に行きました。座り込みを続ける彼らの中に、米軍の車両が通る度に、むき出しの敵意を口にする人たちがいました。
私は最後まで、その感情を共有することはできなかったけれど、それが私が唯一見た戦争の残した爪あとでした。 被害を被った側の許しを得るには、血は流さずとも闘いは続けます。
70年前に生み出したその過ちを払拭することのないままに、戦前への道を踏み込もうとしている、そんな現政権に対し、警鐘を鳴らす。これが、今の私にできる唯一の、先の大戦での犠牲者への弔いだと思っています。
ただの大学生が、ただの一人の女が、土曜の渋谷で、こんな場所でマイクを握る。ただの一国民で、まだまだ若いお前に何ができるんだって何度も何度も言われてきました。
「最近の若者はね」って何か分かったフリをして、悟ってくる大人の声も聞き飽きました。もちろん私はまだ何者でもありません。しかし、だからこそ、今持ちうるすべての可能性や不透明な未来を、いっときの頭の悪い権力者などに奪わせるわけにはいかないのです。
怯え続けることを、すまし顔を続けるのを、もうやめにしませんか。
平和と言われるこの日常の中で、何もかもが用意されている中で、私たちは気づかぬうちに想像力への敬意を失いました。 今あるもの全てはいつの間にか、気づかない間に一瞬にして消え去ることができるんだって、そんなことすら忘れきって、もう70年間が経ってしまいました。
無関心だった大人たちを責めるつもりはありません。ただもう、これ以上素知らぬふりを続けないでください。
相手はたとえ立憲主義を理解していなかろうが、ポツダム宣言読んだことないって言っていようが、権力者であることには変わりありません。 私や私の仲間が、こうしてこの場所に、こうやって立つことで、どれだけのリスクをしょっているか、きっと想像に難くないはずです。
けれど私はこうすることで、私自身がしょいこむリスクよりも、現政権に身を委ねた結果訪れる未来のほうが、よっぽど恐ろしく思えるのです。
もう他人ごとではありません。
すべての国民が当事者です。
想像力を捨て、目先の利益に捕らわれ、独裁的な権力者に首を繋がれた、そんな奴隷になりたいですか?
私は、いま自分が持つすべての可能性をかけて、この法案と、そして安倍政権を権力の座から引きずり下ろします。 そうすることでしか私の望む、そして受け入れるにふさわしい未来がやってこないからです。
4年前の震災で、私は被災こそしなかったけれど、それが私にとてもたくさんのことを教えてくれました。
国や権力は助けてくれないんです。どれだけ困ってたって、黙ってても、黙ってたら手を差し伸べてくれるわけじゃないです。 ただそこに座ってたらなにか素晴らしいことがやってくる、そんなのはただの幻想でした。
身を危険にさらして行動したからといって、必ずしも自分の望むものが手に入るとは限らない。けれど、そうすることで、もしそこに残り1%でも可能性が残っているのなら 私は全てのリスクをしょって、声を上げることをやめません。 そして、そういう同じように思ってくれる人がひとりでも多くいてくれることを心の底から願っています。
2015年6月27日、私、福田和香子は戦争法案に反対します!
書き起こし、ここまで。
どのスピーカーも、みんなが共感できることを熱く語っていますが、特にスピーチの訓練を受けていない学生スピーカーの中で、福田さんの語りかけが魅力的なのは、肝心なところで原稿を見ないこと。特に、語尾など聴衆の反応をしっかり受け止めるべきところで、目を逸らさないところだと思います。