2012年11月15日木曜日

告示日までにやっていいこと、いけないこと(公職選挙法という非民主的な束縛)

11月14日に東京・中野で急遽開かれた「宇都宮けんじさんと共に、人にやさしい都政をつくろう」キックオフ集会、予想を超えて1400人の人が詰めかけました。

Ustreamのアーカイブ、後半最後の00:50:38から約9分間、弁護士の田中先生が、今から告示日である11月29日までにやっていいこと、いけないことについて公職選挙法の観点から助言して下さいました。

我が国の公職選挙法というのはこれほど非民主的だったとは知りませんでした。


東京を変えるキックオフ集会・宇都宮けんじさんとともに(後半)

Video streaming by Ustream

都政に限らず、今後応援したい立候補者がいる場合、既得権益層が操作するマスコミ報道と、我々ネット上の情報発信者であるマイクロメディアが闘う上で重要なアドバイスです。

[書き起こしここから]
00:50:38
[弁護士の田中先生登場]

弁護士の田中と申します。

また弁護士が登場しました。なにせ候補者が弁護士ですからしようがないと思います。

あの、法曹界という古い言葉になりますが、法曹界の中では、宇都宮健児さんの実績であるとか考えであるとか、あるいは人柄、知らない者はいません。もし知らなかったらもぐりでしょうね。

ただ、法曹界ほどには一般都民の皆さんにはまだまだ知れ渡っていない。だから知らしてもらわなきゃいけない。その関係で、今から都知事選の投票日まで、何が出来るかということをお話ししましょう。

上原さん[ひとつ前の話し手、元国立市長]が言われましたように、この国には公職選挙法というまことに厄介な法律がありまして、選挙のときの選挙運動や政治活動にあれこれ規制をかけている

その関係で、何を出来るのか、ということをはっきりさせることが重要になると思います。

00:51:35
きょうお配りされた配布資料の中に白いチラシで「宇都宮健児さんを応援したい」という資料が入ってます。私が作ったんじゃないですが、これは大変よくできています。

ですからこれをよーく読んで頂いて、これを基本にしてください。

まず考え方では、時期を2つに分けて考えます。区切りは告示日、11月29日です。この日、宇都宮さんたち候補者が立候補を届け出ますこの届け出のから投票日の12月16日の前日の12月15日までが選挙運動期間17日間です。これが公職選挙法では、投票を訴える「選挙運動」はこの選挙運動期間しかできない。これが公選法の縛りなんです。残念ながら。00:52:23

じゃあ、きょうから29日までの15日間は何もできないのか。とんでもありません。都政を変えようというのは、これは「政治活動」です

そして、言論・表現の自由が憲法で保証されているこの国では、たとえ選挙の直前であっても言論による政治活動は自由にできます

みなさんが作る例えば勝手連という団体、あるいは個人で、たとえば「人にやさしい東京を」とか「平和と脱原発の都政をつくろう」とかのチラシやいろんな文書を作って配布するのは自由です。そのチラシ文書に宇都宮けんじという名前を書いても問題ありません

きょうの資料の中に、シンボルカラーオレンジチラシが入ってます。参考にしてください。ここには「東京を変えるキックオフ」とか「宇都宮けんじさんと共に人にやさしい東京を」とか、あるいは「私たちの手で変えよう」とか書いてあります。これは何の問題もなく作れて配布できるチラシです。

これを作ったのは「人にやさしい東京をつくる会」、この主催団体ですが、みなさんが個人で作っても、みなさんがサークルで作っても、なんの問題もない。 ぜひ参考にしてください。00:53:39

ただし、そういうチラシを作る時に、ふたつ注意をして下さい。

①ひとつ。選挙運動、即ち、投票を訴える活動は告示(=11月29日)までできません。ですから、「宇都宮さんに投票を」とか「12月16日の投票日に」とかは書かないでくださいこれを書くと投票依頼とみなされて、事前運動とみなされる可能性があります。残念ながらこのタブーだけは守ってください。守っても意味は通じるはずです。そこを信頼しましょう。 00:54:16

②ふたつめ。候補者の名前を書いた文書は、それを告示の後に撒くと、それを選挙運動の脱法文書、つまり法律を免れる文書とされる危険があります。ですから個人名を書いた文書は告示前までに撒ききって下さい

ときどき相談を受けて困るのがあるんです。残っちゃったんですかねぇ、告示の前夜に名前を書いたチラシを大量に撒きたいんだがどうすればいいんだろう、と。ひとつ間違うと脱法文書による事前運動とされかねませんのでこのあたりは注意したい。

どうすりゃいいか。ビラ早く撒いちゃえばいいんですよ。ぜひその方向でお願いをします。 00:55:01

ビラじゃなくて、ホームページやブログはどうか。さっきの「宇都宮さんと共に人にやさしい都政を」といった内容をホームページにアップすることは、名前や写真が載っていてもなんの問題もありません。これはチラシの配布と同じ意味で投票依頼に当たらない限り自由にできます。

たとえば本日のこの集会、これは、「政治活動」の集会であって「事前運動」ではありません。そして皆さんいろいろ苦労されて、タブーを守って頂きましたんで、全然逸脱ありません。

だから、たとえば今日のこの集会を録画して、あるいは写真に撮って、もし主催者がいいとおっしゃるのであれば、ホームページにアップされても、公職選挙法上の問題はなんにもない。ここまでやれるんですよ。

それから、ホームページの関係より、候補者の名前を告示になってからアップすると選挙運動にされかねないんですが、告示の前にアップしたホームページをそのままにしておくことは、問題ありません

ですから、ホームページやブログを使う場合の秘訣。告示の前にできるだけ充実させて全部載せてしまうこと。これをぜひ頑張ってください。未だ時間があります。

その、ビラやホームページでなくて、集会を開いたり街頭で演説したりすること、投票依頼に当たらない限り、完全に自由です。それは、だってこのきょうの素晴らしい集会が見本じゃありませんか。ぜひ各自でやって頂きたいと思います。

告示の29日から選挙運動の期間に入ります。告示の後は、公職選挙法によって選挙にうるさい規制が加えられます。後半に配られる選挙運動用のチラシやハガキ、ポスターなどは確かに制限されます。

ですから、自前のポスターを貼り出すというわけにはいきません。したがって、告示前に候補者名の入ったポスターは、残念ながら告示日までに剥がしてください

チラシやポスターなどの配布は、確認団体になるこの、人にやさしい都政をつくる会が行います。こうした活動をやろうとする人はぜひボランティア・スタッフとしてこの会の活動に参加して下さい。そこで十分にやれます。

では個人ではできないのか。色々あります。宣伝カーを使っての選挙活動などはできませんが、地域や職場で身内が参加する学習会などを開く事。選挙を目的としない集会の合間に演説を入れることなどは自由にできます。

戸別訪問は禁止されていますが、訪問のついでに話をしたり、出会った人に話をする、「個々面接」とか「ささやき」とかいうんですが、(笑)これは十分できます。

あの、告示の前は、選挙や政治について語れるのに、告示になって投票日が近づくと何も話せなくなると、これは民主主義じゃないんですよ。(拍手)

ですからね、一応戸別訪問にならないように注意しながら、旺盛に政治や選挙について語って、候補者を押し出して頂きたいと思います。電話での選挙運動は最も簡便な選挙活動で、誰でもできて全く規制はありません

最後に手紙やメール。投票を依頼する選挙運動で禁止されているのは頒布(はんぷ)する事です。頒布というのは不特定または多数に配る事

特定の少数に配るのは禁止されていませんので、メールも含めて工夫をして頂きたいと思います。

私たち、宇都宮さんに共感する弁護士、皆さんの活動をサポートしながら、選挙活動の自由を、いや政治活動の自由を広げて、そして新しい都政をつくっていきたいと思います。ともに頑張りましょう。ありがとうございました。
[書き起こしここまで]

後で、Q&Aが作成されて配布されるそうです。
宇都宮さんの応援カラーはオレンジと明るい緑、こんな感じです。(司会者のスカーフ参照。)


私たちはずっと中世の世界にでも住んでいたようです。支配階級が用意した民主主義のお伽噺をみながら飼われている民として。東京が常に全国に影響するわけではありませんが、この都知事選は日本という国のゆくえを左右します。

このような人材がまだ手を挙げてくれるというのは、最後のチャンスかもしれません。

宇都宮さんの人となりがわかりやすい、2006年のNHKプロフェッショナルの動画を埋込みましたσ 東京に与えられた"宇都宮けんじ"というチャンス


弁護士、闘う―宇都宮健児の事件帖

2012年11月4日日曜日

本気で自然エネルギー! Earth ; Powering The Planet [動画と書き起こし]

米国公共放送の番組。明らかにプロパガンダだらけなのですが(50分の間に例えば気候変動という表現20回、二酸化炭素という言葉が25回使われています)、日本のマスコミが報道しない世界情報もてんこ盛り~。(米中が協力する時代に日本がどういう立場か理解しておいたほうがいい。番組では当然ながら属国の下僕など全くスルーだぁ!)



ドイツなどからやってくる個人や基礎自治体による「エネルギー自治」という発想が主流になって欲しいですが、どうしても20世紀の続きをやると、大規模云々が出てきます。利権と強欲が入ります。

ブラジルや中国のような国が登場するので、ある程度やむを得ないかもしれません。(ケイザイがどーのって付いていないと納得できない日経やWSJ信者レベルだと、こういう構成になっていないと視ないかも。)

が、国家や寡占企業に支配される構図はもう脱却したいところ。THRIVEの内容を頭においてご覧ください。

[書き起こしここから(まだノーチェック、未整理です)]
世界の人口は70億人を超えました。
エネルギー消費量は今後15年間で25%以上増加します。
2050年までには2倍近くになるとも言われています。

私たちには、本当はどの程度のエネルギーが必要なのか、そしてそれをどうやって手に入れるのか、これは地球の気候にも大きな影響を及ぼす問題です。

再生可能エネルギーも有望視されていますが、ほとんどの大国は未だに19世紀のテクノロジーに依存しています。

「安価なエネルギーに頼る時代はもう終わったのです。」

省エネ、効率化を進めれば、2030年にはエネルギー需要を30%削減できるとの試算もあります。

地質学者リチャード・アレイ@海辺
「では、どうやったらそれを実現できるのでしょうか。技術的な問題だけでなく私たちが、経済、政治、国家安全保障、雇用など、あらゆる分野でどういう選択をするのかが大きなカギになります。

私は科学者であると同時に、親であり、大学教授でもあります子どもたちの将来はやはり気がかりです。これまで南極大陸の変化や気候の歴史を研究するとともに、地球がどれだけの再生可能エネルギーを供給できるかの数値化に努めてきました。」

地質学者のリチャード・アレイは現在のエネルギー需要が地球温暖化を引き起こしていると確信しています。しかし解決策はあると考えています。

それらは風の中に、ふりそそぐ太陽の中に、発明家やエンジニアの頭の中に存在しています。

方針さえ決まれば技術的な問題は解決できます。

一国のエネルギーインフラの構築には数十年を要します。

アメリカは対応できるのか、疑問視する人もいます。

”エネルギー政策は50年という長い時間で取り組む問題なのに、アメリカの政治家ときたら選挙がある2年周期で考えているのです。”


[リチャード・アレイ]
それでも私は今よりより多くの人たちが、今よりもクリーンで持続可能なエネルギーを使って、より豊かな生活を送るようになることができると楽観しています。

2:32
”本気で自然エネルギー!
 Earth: Powering the Planet”

2:41
制作 Passport Knowledge Productions (アメリカ 2012年)

地球には枯渇することのない再生可能エネルギーが満ち溢れています。

海には波や潮の満ち引きの力があります。

光合成をおこなう植物は太陽エネルギーを蓄えています。

また、風力を使うエネルギーも注目を集めています。

中でもエネルギー源として最も強力で有望なのは、私たちの毎日を明るく照らす太陽です。

地球の表面に到達する太陽光はおよそ12万テラワット。それが世界に万遍なく行き渡ったら、1平方メートルあたりおよそ240ワットになります。

リチャード・アレイがこの数字をわかりやすく説明します。

この広大な砂漠の一区画に立って、両手をこんな風に広げ、もうひとりの私も同じことをします。それぞれ60ワットの白熱電球を2つずつ、合計で4つ持つと、1平方メートルあたり240ワットになります。

大量のエネルギーです。世界じゅう昼も夜も夏も冬も平均してこれだけの太陽光が地球のエネルギー源として利用可能なのです。

ではどうすればこの膨大な太陽の力を実際に使えるエネルギーに変えられるのでしょうか。

鏡が太陽光を反射するのは誰でも知っている事ですが、反射した太陽光を集め、液体が入ったタンクに当てたらどうなるでしょうか。

液体が蒸気を発生し、タービンを動かして発電します。これが集光型ソーラ発電の仕組みです。

このアイデアは新しい物ではなく1910年頃には既に考案されていました。

考案したのはアメリカの発明家、フランク・シューマン。安全ガラスなどを発明したシューマンは太陽光を金属パイプに集中的にあて、中の液体を熱し、蒸気タービンを駆動する装置を設計をしました。


しかし当時はエネルギー源といえば石炭という時代。支援者を見つけることができなかったシューマンは、1912年、エジプトへと旅立ちます。5:07

シューマンは太陽光を集めるために、カーブした鏡を使いました。試作品の発明器でナイル川の水を綿花畑へ運ぶ事に成功します。

しかし、この発明は時代の先を行き過ぎていました。

政府の支援も得られず、第一次世界大戦の勃発とともに幕切れとなります。

[スペイン・セビリア]
それから1世紀、スペインではシューマンが考案したのとよく似ている集光型ソーラ発電機が活躍しています。

ここは、世界で最も早く始動した商業用ソーラ発電施設のひとつです。シューマンが発明したのと同様、カーブした鏡をつかって液体が流れるパイプに太陽照射を集めています。

50メガワット以上の発電量を持ち、およそ2万6000世帯に電力供給が可能です。

今後さらに大型のプラントを増設する予定です。

このプロジェクトを後押ししているのはスペイン政府。政府は集光型ソーラ発電で将来的には500メガワットの発電を目指していて、25年間の固定価格買取り制度を導入しました。

これを受け、エネルギー会社はこぞってソーラ発電の開発に乗り出しました。その後、政府の政策変更や財政危機による打撃も受けましたが、テクノロジー自体は順調に機能しています。

セビリアのプラントを設計しているアベンゴア社は世界最大規模のソーラ発電計画レザーテックプロジェクトに参画しています。

ヨーロッパや北アフリカの企業が参加するこのプロジェクトは、ヨーロッパと中東で大規模なエネルギー構想を描いています。7:04

[モロッコ]
モロッコは産油国の多い北アフリカに位置しながら、石油などの化石燃料資源がほとんどありません。そのかわりに、太陽、砂漠、無人の土地はふんだんにあります。

モロッコ政府は中小企業や個人に、中小規模のソーラ発電装置の利用を奨励してきました。

サハラ砂漠のはずれでは、テントのてっぺんにソーラパネルを設置している光景も見られます。

レザーテックプロジェクトの構想はもっと大規模です。各地への集光型ソーラ発電所の建設、ソーラーパネルや風力タービンの設置、さらにはヨーロッパへの電力供給も含まれます。

サハラ砂漠でのソーラ発電によって、2050年までに北アフリカの電力需要の80%、ヨーロッパの需要の15%を賄う事ができると見積もっています。

モロッコは2、30年後にはエネルギーを自給自足できるようになるかもしれません。このテクノロジーが生み出すエネルギーは世界の貧しい国々に電力と収入の両方を与える可能性があります。

シューマンが100年余り前に考案した装置の現代版は、人類のエネルギー需要を満たすのに大きな役割を果たすかもしれません。

およそ1600平方メートルの砂漠から、太陽エネルギーの10%を集めるだけで、現在人類が消費するエネルギー量のおよそ2倍を供給することができる計算です。

太陽エネルギーの活用法は他にもあります。

光合成によって成長する植物を利用するバイオマス発電です。

[エネルギーの自給自足]
人類が現在使用しているエネルギーのおよそ11倍のエネルギーを供給できると推定しています。

アメリカでは、乗用車、トラック、バスなどの自動車が1000人当たり800台以上存在します。

発展途上国が同じ道を辿れば、地球上で600億台の車が行き交うことになり、ガソリンやディーゼルの消費で二酸化炭素が年間120億トン増える計算。それも大量の石油があればの話です。


しかし、こうした心配とは無縁の国が1つあります。

9:35
[サンパウロ州研究支援財団]カルロス・クルス
もし、なんらかの理由でこの世界から石油が一滴残らずなくなったとします。それでもこれまでどおり車が走行を続けられる唯一の国がブラジルでしょう。

昔からそうだったわけではありません。
1970年代のオイルショックでは他の先進国と同様にブラジルでもガソリン不足が起きました。

当時の軍事独裁政権は画期的な決断を下します。軍事独裁政権というものは、多くの点で好ましくありませんが、当時のブラジルの軍事政権は科学技術の発展が国の発展に役立つということを理解していました。

1975年、ガソリンに替えてエタノールを使用する国家計画が首謀されました。軍事政権ですから、国家主義的野望もあってやったことでしょう。

物理学者のジョセ・ゴールデンベルグは農業の とともにこの計画に取り組み、輸入ガソリンに替えて、サトウキビから作ったエタノールを使う事を提唱しました。

人々はガソリンに代わる選択肢があるとしって驚きました。それまで車の燃料といえばガソリンでしたからね。10:47

[(話)サンパウロ州研究支援財団 カルロス・クルス]
サトウキビから、エタノールなどのアルコール類を作ることは、人類が昔からしていた事で、特別新しい事ではありません。


雨と太陽に恵まれたブラジルですが、燃料の自給自足を確立するためには、政策と投資が必要でした。

”政府の意思決定が功を奏しました。単に天然資源に恵まれただけだはなくて、政府はじっくり考えて計画的に必要な条件を整えていきました。

もちろんはじめのうち、エタノールは高価でしたが、それは政府も理解していました。みんな新しいテクノロジーが開発された当初はコストがかかるものだとわかっていました。”11:30

ブラジルの政策は成功を収めます。


”それから10年間、エタノールを100パーセント使って走る車は世界でブラジルしかありませんでした。そしてそのために
エタノールの流通システムが完備されました。”


”1980年代末には自動車の大半が純粋エタノール車になっていました。”

自動車会社は純粋エタノール車の量産体制を整えます。12:01

GMブラジル
エンリケ・ペレイラ
"当時、我が社が販売する車の97%はエタノール車でした。"

その後、石油価格が下落に転じたため、エタノールに補助金を出し続けることは、賢明な政策ではなくなります。

しかし、サトウキビの主要な生産国であるブラジルは、ガソリンとエタノールのどちらでも使える自動車の開発を模索し始めます。12:28

エンリケ・ペレイラ
"1980年代終わりからどちらの燃料でも走行可能な車を検討し始めましたが、当時はそのようなフレックス燃料車を走らせる技術は私たちにはありませんでした。”12:40

どちらの燃料でも走れる新種のエンジンは80年代にアメリカで発明されていました。

しかし大量生産によるフレックス燃料車の第一号、フォルクスワーゲン・ゴルは、アメリカではなくブラジルで2003年に売り出されます。12:58

実はこの時もブラジル政府が後押しをしていました。



"前年の2002年、政府はフレックス燃料車を製造した会社に対して、減税を行う方針を打ち出していたのです。ブラジル政府の政策は、時に方向転換や変更はあったものの、しっかりとした成果をあげたのです。

人間が天然資源を計画的に活用した例だと言えるでしょう。


エンリケ・ペレイラ
"今現在、GMブラジルで製造している車はすべてフレックス燃料車です。”13:36

今、ブラジルの消費者には選択肢があります。コストは割高でもエネルギー量で勝るガソリンか、エネルギー量は劣るけれども低コストのエタノールか。

毎月、ブラジルで販売されている自動車の95%がフレックス燃料車です。13:54

ガソリンの代替燃料という観点からブラジルは非常にユニークな国といえます。ブラジルでは既にエタノールの使用量がガソリンを上回っています。14:07

これは小規模な実験ではなく、大規模な実験なのです。

ブラジルの研究者たちは、森林を破壊することなく利用されていない農地や牧草地だけを使って、バイオ燃料の生産地を10倍に増やせると言います。14:23

サンパウロ州研究支援財団
カルロス・クルス
”バイオ燃料が持続可能な代替燃料となるには食糧生産と競合させない事が大切です。14:33

そしてもちろん、環境破壊を引き起こさないことが絶対条件となります。”14:40

ブラジルでは、石油の輸入に依存していた時代から、エネルギーが自給自足できるまで順調に来たように見えるかもしれませんが、実際には紆余曲折を経てフレックス燃料車に辿りついたのです。14:57

終始変わらなかったのは、国家がその国固有の可能性や、天然資源を見据えてきたという点です。15:06


エタノール推進の立役者、ジョゼ・ゴールデンベルク は、重要な教訓を学びました。

元ブラジル環境相
ジョゼ・ゴールデンベルク
”方針を決めたらその方針を貫き通す勇気を持つことです。”15:20 

[風力発電について]
化石燃料からの脱却を歩み始めた自治体は、他にもあるのでしょうか。15:28

地元住民の抵抗という大きな壁を乗り越えて、風力発電の基地となった2つの地自体を紹介しましょう。15:36

[風力発電の町]

2つの町は一見大きく異なります。

[デンマーク サムソ島]
サムソはデンマーク本島の沖合に浮かぶ小さな島。

[テキサス州 ロスコ―]
もう一つはアメリカ南部の乾いた広大な土地。15:55

両方に共通しているのは豊かな風力です。

サムソ島では、風力発電量が消費量を上回り、余剰電力をデンマーク本島に送る事もあります。16:07

また、テキサスの風が作る電力は、隣接する他の3つの州を合わせた発電量に匹敵します。

どちらの自治体も地域の協力を得ることに成功してきましたが、住民の抵抗は多くの再生可能エネルギー・プロジェクトの障害となってきた難題です。16:25

2012年9月30日日曜日

1日100g超の超高濃度ビタミンC点滴療法 体験談


高濃度ビタミンC点滴療法やビタミンCの効能について、6月1日の記事「震災直後からわかっていたビタミンC摂取による被曝の克服」から何度かとりあげてきました。まもなく家族が予防ではなく治療のためにそれを必要とするとは想像もしていませんでした。

その数日後の6月7日、健康優良高齢者(?)の見本だった父が軽い失語症や記憶障害のため心療内科を母と来院。そこから紹介された脳神経外科病院での診療は私も付き添った同月20日。MRIとCT画像で、肺癌からの脳転移の腫瘍で夏を越せるかどうかわからない、長くて1年との診断。両親が先に退出した診療室で告知を最初に聞いたのが私でした。

当ブログの前回投稿日時をみて、なぜそれまでに読まなかったのか死ぬほど悔やまれる本が水上治先生のこの本、「超高濃度ビタミンC点滴療法」。臨床医として実際の症例やその歴史を綴られ、具体的に目安となるコストや通院期間、頻度の変化なども出てきます。個人差は非常に大きいですが、それでも週最低2回の点滴を20〜30回受けて効果が見える人が多いなど参考になります。(8月17日というのは悪魔が棲むような病院に単に介護支援を求めて父を入院させてしまった日でした。)

原発事故前から2人に1人が癌になり、その大半が(標準医療では)完治しない時代であれば、自分自身の目の前にあるリスクとしての認識が必要でした。予防で済まず治療となった場合の具体的コストや期間の目安など。

点滴療法研究会の柳澤先生たちのお話以前、2、3年前に、私は既に高濃度ビタミンCの点滴で末期癌が完治した例を知っていたので、父の言語障害や右半身の麻痺が進行し始めたときに、母の了解を得て家から一番近いクリニックを検索し、父の高濃度ビタミンC点滴のための通院が始まりました。内部被曝の可能性もあったと思います。大腸にも多少影が見えており、そこからの転移もあり得ました。

ビタミンCの摂取は例え病気を治さなくても全身に非常にいい効果が多いのですが、がん細胞を殺すには50g以下の投与では成功例が殆どなく、50~125g投与するようになって、ガンの進行をストップさせたり、完治したりという例が出て、20~30回の点滴で効果が見えてくるとのこと。(最短2ヶ月で変化が出るという話も別途聞いたことがあります。)

ビタミンC(=アスコルビン酸)は血中で飽和状態になるまでは栄養剤ですが、飽和状態に達した時からガン細胞を殺す「薬」となるのです。しかも正常細胞に対しては栄養剤としての効果は変わらないまま。むしろ免疫力は向上。鎮痛効果もあり。

父が通ったKクリニックでも早い人の場合、75g投与で血中濃度が十分、抗がん作用に効果的な飽和状態に達するとのことでした。点滴終了直後の血中濃度が1デシリットル中350〜400mg以上を維持できているかどうかが飽和状態の目安になります。(実際の血液検査結果は単位がμg/mLなので4桁表示でした。)

残念ながら父の場合、転移した腫瘍の進行が早過ぎて75g投与でも活性酸素による消耗が激しく、血中濃度が抗ガンに効く飽和状態にならないという血液検査結果(277mg/dL)が出たため、100g投与へ移行。100g点滴の5度めの来院で、クリニックのお盆休みで1週間空いてしまうことに。本来なら効果を保つために最低週2度の点滴が必要  orz...。しかもまだ100gでの点滴後のVC血中濃度の検査をしていないままでした。(ずっと後になってもっと体調悪化していた時でさえ100g摂取なら血中濃度429mg/dLで父には十分だったことが判明。週2、3度の通院を続けていれば腫瘍が消え始める可能性は大いにありました。)

盆休み中断時に、それ以上の通院を母に反対されたまま反論できずに諦め、1包1グラムのリポ・スフェリックのビタミンCサプリを数時間おきに摂る経口摂取に戻らざるを得ませんでした(当ブログのサイドバーてっぺんのサプリご参照)。頻度は大幅に増やしはしましたが。

私が過去に読んだ本は末期癌を克服した医師ご自身が書かれた本で、一般の患者の具体的症例が記憶になく、ただ点滴療法研究会の柳沢厚生先生らの動画から学んだメカニズムを元に、抗がん作用だけでなく全身の免疫力最適化などの効果を理論的に強く信じているだけでした。
 私が時間をかけて収集してきた情報を見るのも拒否する身内にとっては重度障害で生き長らえる"惨めな"末期しか頭に描けなかったのです。(一般の癌のイメージはマスコミとマスコミ信者らの口コミの情報だけで作られているわけです。) 

保険がきかない自由診療は1回当たりが高価であることに加え、どれくらいの期間続けると効果が出るのかまだ症例を十分知らず、また、大量点滴は(その日だけとはいえ)頻尿を伴うので、私たちの無知のせいで、右半身の麻痺が進行し始めた父はトイレに間に合わないことが出始めました。これは実は健全なことで、ある意味いいサインでもあったのですが、母には障害がより重度になっていくような印象を与えることになりました。「とうとう下の世話まで」と。

翌週、介護側のやむを得ない事情で入院させたF救急病院で強制された絶食中に父は肺炎と共に尿が止まって激痛を伴う前立腺肥大を併発したのですが、元々やや頻尿だった父の尿の出が少なくなり始めたのも最後のビタミンC点滴効果が薄れる頃と一致。
一方、言語障害と並行して時計が読めなくなっていたのですが、ビタミンC点滴通院中に時計の文字盤が再び認識できるようになり、私達の怠慢で止まったまま放置していた父の書斎の時計の電池交換を指差して声で要求しました。今思えば、ビタミンCがその箇所のガン細胞駆逐に効き脳細胞が復活した可能性が高いと思います。並行して少し通ったリハビリの言語療法も無視できませんが。)

超高濃度ビタミンC点滴療法」を(何故か今ごろ)読んでいて解ってきたのは、たった数回で盆休みに屈して止めたのは後悔しきれないけれど、経口摂取であれ点滴であれ、たとえ十分な期間でなくてもビタミンCの大量摂取を行なって本当によかったということ。本来の肺癌や脳腫瘍が父にもたらす筈の苦しみが、(たまたま脳内の該当箇所が麻痺していたと理由だけでなく)非常に抑制されていて、多くの時間を明るく前向きに過ごすことができたことです。脳外科医はパニックになるはずの箇所も一緒にやられていると言いましたが、その頃はかなり軽症だったし、喜怒哀楽の感情はその後もずっと持っていました。実際、4度声を上げて大泣きしています。でも回復に向けてずっと前向きでした。

これは30代終わり頃から40年かけて体を作ってきた父自身の生きる姿勢も大いにあったと思います。後期高齢者とはいえ身体年齢は常に10歳以上若く、人より健康と自負していたはずの人間が2か月足らずで重度障害者になり、喋るのも書くのも歌うのも大好きだったのに、耳が聞こえて理解できても答えられなくなり、それでも病院の抗生剤の副作用でボロボロにされるまでは、本当によく頑張りました。病床でも自分の左腕と背筋で座骨の上に座っている状態をキープするリハビリを意識が続く限りやりました。でもビタミンCがそれを後押ししてくれたみたいなのです。

ビタミンCでは終末期の鬱症状がとれて明るくなり、その後心身ともに完治した人もいるほどで、精神的な作用のメカニズムも将来解明されるかもしれません。
 父の場合、元々笑いのツボが人とズレていて天然で笑いを誘うことは度々ありましたが、こんな性格だったかしらと思うほど、麻痺が進行しつつも自宅療養した約2ヶ月間、一緒に沢山笑ったんです。小脳がやられしまったせいで、日常の習慣に支障をきたし、食事の時にこぼしまくったり、食べる筈のものが入った器を持ち上げて飲もうとしそうになったりしたのですが、真っ先に吹き出して、一番面白がって笑っているのが本人なので、私も母も一緒に3人で笑いがとまらなくなったりすることが何度も。今となっては、あれはビタミンCが脳内の笑いのツボを活性化してたのかと思えます。

[追記: ビタミンCの分子は血管-脳関門を通過できるだけ十分小さいので、脳内であっても、ビタミンCで腫瘍を減少させることにより元の機能を回復させることは、進行ガンでも可能です。ただし、十分な量を十分な期間投与することさえできれば。途中で点滴をやめていなければ、まだ機能していた細胞はそのままで、不全になっていた細胞は再度活性化した可能性は大いにありました。]

父の介護生活中の家族や業者への連絡のためなどの連日のメール・電話番号記録や、入院前から撮っていた写真などをチェックしていると、ビタミンC(およびケイ素サプリのウモプラスなど抗酸化物質)をなんとか摂取できていたときと、標準医療(保険診療)以外の措置を軽視するの医師らのためにそれが不可能になっていたときで、父の健康に重大な変化があったことがわかってきました。(詳細はいずれまた。)

この国の司法が弱者の味方であるなら告訴したいほどの入院先であったF病院では末期患者活用術とでも命名したい人体実験し放題の仕打ちを受けており、2週間後にやっと自宅に連れ戻したときには表情筋さえ動けない植物状態にされていました(これに関しても詳細は後ほど)。

が、退院の帰路で再度受けさせたビタミンC点滴のお陰で、一部の未熟な看護師らの吸引練習によって「作られた」2度目の肺炎は、自宅での体位調整で気道に戻したピンクベージュの粘液を自力咳き込みで出して完治。最後の黒ずんだ血の塊も私が濡らしたガーゼを指に巻いて喉の入口から取り出しました。入院2週目(MRSA用の抗生剤点滴開始直後)からしょっちゅう繰り返していた39度前後の高熱と首・左腕の痛ましいほどの痙攣はピタリと止み、呼吸が安らかになりました。

(入院中も一度だけKクリニックで購入したビタミン点滴を担当医の便宜で割込ませ、肺炎は同様にほぼ自力で完治していたのです。薬慣れしていない体に大した栄養剤も与えず肺炎用の抗生剤を点滴されるようになってからは朦朧とした中で辛い吸引を自ら求め続ける気管の苦しみが続いていたのに、それを拒否して咳き込んで完全に痰を吐き出し終っていたのです。が、この措置に協力してくれた担当医を外し、自分が主治医になると宣言した若い院長は「現代医学の常識では考えられない」といって院内でのビタミン点滴だけでなく、一旦許可が出ていた外出まで妨害し始めました。その間、一度も患者の顔を見に来てすらいません。)

退院直後のビタミン点滴から5日め、血中ビタミンCが切れ始めていた水曜から木曜にかけて、MRSA(黄色ブドウ球菌)対策剤の副作用が勝ってきたのか、あちこちの筋肉がげっそり落ち、右腕は一夜にして骨と皮の皺だらけ状態に。その後出た壊死とは全く異なり、本当に筋肉が血中に溶解した化学反応としか思えない変化でした。脳腫瘍のための麻痺程度ではあり得ないはずです。(父が回復したときのために廊下やトイレ、浴室のてすり取り付けなどに来ていた業者さんが「突然お痩せになりましたね」と言ったほど。)

退院の日から来て貰っていた24時間連絡可能な訪問看護師さんたちとその手配をしてくれた主治医(循環器内科)は保険診療だけの人たちなので、自由診療である高濃度ビタミンCの輸液を間に入れて貰うと混合診療として違法になるためお願いすることができず、看護師の資格を持った人が周囲にいないか必死で探しました。昔はこんな規制はなかったそうです。代替医療は自然治癒を重視する効果の高い療法が多いので、患者ではなく保険医を守るための法律です。

自分以外の人の体に針を指す「医療行為」が素人がやるとNGなわけです。点滴液の交換や、1日の終わりにビニール針を刺したままの状態で止める「ロックオン」は私が習ってやってたわけですが。

やっと自宅ビタミン点滴のための合法的解決策を思いついたのは水曜夜。(自分たちが購入して使っている点滴チューブに、別の医師の指導で何を繋ごうがこちらの勝手。)でも介護交代の合間に行けるKクリニックは木曜が定休日。金曜になってから寝不足のままKクリニックに車を飛ばし、自宅ビタミンC点滴用の輸液を買ってきました。ちなみに混合診療の合法性確保に関しては医師会の中でも分かれていて諸説あります。

最後の点滴から5日経ってしまって血中濃度、つまりビタミンCの効果は急速に落ちているはずでした。(追記: 点滴で入れたビタミンCが効果を発揮するのは最初の12時間とも言われます。絶食強要のため飲食できなくなった闘病中の父は、毎日健常者が必要とする「食事プラス2グラム」の数十倍のビタミンCが点滴で必要だったのに、それもゼロにされてしまったため、既に体内に残るビタミンCを全て消耗し始め、壊血病を起こしていたと思われます。右半身の肉が突然削げ落ち、血管も潰された状態になったのは腫瘍では説明がつきませんがビタミンC欠乏なら簡単に説明できます。)

午前中に訪問看護師さんが入れてくれた通常の水分補給用点滴(栄養素はブドウ糖のみ)は、父の血管はもうあまり受け付けなくなっていて、私が帰宅する頃には終わりかけているはずのパックが、まだ1割も落ちておらず、それがある程度入るまで時間がかかりました。1日の最初は(本当なら止めて欲しかった)抗生剤の点滴なので、ビタミンC点滴は直後でないほうがよく、仕方なく通常の水分輸液を先に入れる必要がありました。

輸液をビタミンC点滴用に変えた途端、左腕に固定された同じ針先から体がそれをぐんぐん吸い始めました。乾いた土が雨水を吸収するかの様に。2週間F病院で点滴され続けて血管が見えなくなっていた右手ほどではないものの、湿って黒ずみ始めていた左手は元通り健康なピンクがかった肌色になってつるつるに。紫斑が出始めていた左足も、マッサージしているうちに同じく健康なピンク色に。静脈点滴なので、このまま心臓から全身の血管へビタミンCがたっぷり運ばれるはずでした。肺癌のそばに出来た胸水を潰すために右半身を高くした体位維持のため、血流が今ひとつでしたが、胸やお腹はまだ艶があってすべすべでした。

7月から言いたい事があってもほとんど喋れなくなってきていたけれど、たくさん延命できなくても、言いたい事を少しでも言い残して、笑顔を見せて、満足して安らかに逝けるのではないかと思いました。私はまだこの時点で完治もあり得ると思っていました。それほどに、血管が残っていた側の肌は健康だったのです。

母と交代で2日のうち1日ほぼ徹夜、2日併せて平均睡眠時間6時間ぐらいの介護生活が始まって、この夜初めて私は熟睡しました。ビタミン点滴も通常の水分点滴も終えたあと、父の息づかいはまだ時々荒かったものの、苦しむ様な呻きはなくなっていました。日付変わって8日午前2時過ぎまで見守って安心して母に介護をバトンタッチ、午前10時前に起床。父の呼吸はまだ時々荒く、右手にはもう血管は消滅していたようでビタミンが通った形跡はなく、両足はむくんで紫斑が出ていました。でも私は諦めきれずにマッサージを続けました。

午後12時過ぎ、「お父さん、頭の汗ちょっと少なくなってきたかな」と言いながら拭いていると、父がゴクリと3回大きく唾を飲み込みました。入院中の連日の吸引で気管支を出血のかさぶただらけにされていたので、それまではこれは、いいサインでした。「そうそう!!唾が上手く飲み込めた!!」と私が喜んでいるときに父の呼吸が止まったようでした。脈をとる要領がわからないので、鼻や口の前に手を当ててみましたが、もう息は感じられませんでした。なんとなく信じられずにあちこちマッサージしてみましたがダメでした。父はまるで私が起きるまで息を引き取るのを待ってくれていたようでした。

まだ「そぅ」とか「なぁ」ぐらいは言葉を発することができていた8月前半ごろ、「言葉が出ないのが一番辛いね」とか(見舞いや介護支援に来てくれた人が帰るとき)「ありがとうが一番言いたいのにね」と私が言うと、本当に切なそうな表情をして弱々しい声で「そぅ」と肯いていたものでした。
 父も人生の多少の番狂わせぐらいは覚悟できていたかもしれませんが、そして、したい事を十分やり尽くしてきた人生だとは思いますが、最後に言葉代わりであった表情さえ奪われ、家族との会話の時間を奪ったのは病院が必要もないのにぶちこんだMRSA対策剤による副作用、そして激しい酸化ストレスだと私は思っています(繰り返しますが後ほど詳述します。この国の司法がまともでさえあれば許されないような不要で危険な事を虚偽の説明で署名させられて実行されたのです。実は末期患者と家族によく起こっている社会全体の問題です)

が、最後の瞬間は父は少なくとも非常に安らかな顔をしていました。表情筋を潰されたせいもあったかもしれませんが、呼吸が止まる瞬間は、2度目のCT撮影後にどの医師も警告していた通り「脳幹まで腫瘍が転移しているので、突然呼吸が止まることがあるかもしれない」という、まさにその状態でした。腫瘍による麻痺だけであれば苦しまずに逝けるというのは本当でした。肉体的苦痛も気持ちの落ち込み(大泣き)も免疫力低下を防ぐ手段を断たれていたときに起こっていました。表情筋が動かなくても、声が出にくくなっていても、ビタミンC点滴を行なう前までは、見ていて辛くなるような呻き声を何度もあげていて、口内もわずかな擦れで出血するほど弱っていました。

呼吸は時々荒かったものの、ビタミンCが体に充填された後はやはり安らかでした。表情筋が侵されていなければ、自宅から通院していた頃のように笑顔が戻ったことと思います。実は、その最初で最後となった自宅でのビタミン点滴中に、Kクリニックから電話で朗報が入り、1週間前のF病院退院の日の点滴後の血液検査結果が429mg/dLという十分な数値であることを知らされました。VC100g投与だと活性酸素によって消耗しない、つまりガン細胞を除去できるレベルということです。目の前に横たわっている父は2週間の人体実験で急激にやつれたとはいえ、40年かけてこつこつ作ってきた骨や筋肉が詰まった体でした。私には希望を持たずに一般医の言う事だけを丸飲みする人たちのほうが不可解でした。

(ちなみに、父は往診してくれた地元主治医の予告通りに、退院後どんびしゃ一週間後に亡くなりましたが、これにはトリックがあります。ビタミンC点滴(合計700mL以上の輸液)のタイミングや標準点滴との組合せをKクリニックの医師《元心臓外科医で現在も保険診療やリハビリも運営》に尋ねて気づいたのですが、毎日の点滴の水分量が飲食不能になった人間が本来必要とする量の半分にしてあったのです。主治医の考えではそれが患者と家族への「慈悲」だったのかもしれません。が、最初から最後まで希望を捨てていなかった私としては先端医療を学ばず自分の専門性に溺れる医者というのは人の命に対して傲慢だと思います。少なくとも、こちらが最初から高濃度ビタミンCについて、余命宣告された家族の話をしているのに、一度もこの普及しつつある先端医療について学ぼうとはしてくれませんでした。しかもビタミンC点滴をしてくてていたK医師は知人であり、話をすると言っていたのに。)

水上治先生は、少しでも希望を持ちながら死んでいく人の顔つきは、絶望して死んでいく人と全然違うと書かれています。告知の仕方には医者の数だけ考え方もそれぞれあると思いますが、私が最後の医師を選ぶ必要が出たときには、水上先生のように常に新しい医療にも心を開き、患者や家族と対等な立場で本音で付合おうとする人にお願いしたいと思います。(本書には症例データだけでなく、水上先生のような立場をとる医師らの生き様や考え方、ライナス・ポーリング博士をはじめとするビタミンC効能提唱者らが受けてきた迫害の歴史も描かれています。)

保険がきかないとはいえ、自由診療は決して富裕層だけのものではありません。現在、生保や損保にかけているお金を共済などの掛け捨てに替え、預金など現金や換金性の高い資産で準備すれば、平均的世帯なら支払うことは可能です。保険適用の抗がん剤治療を並行して受ける場合には、そちらだけ高額医療の支援制度を使うことも考えられます。第一、保険適用できても「標準医療」の3大療法をがんセンターで受けることになれば、平均で自己負担額が150万円もかかる上、7割の人に副作用と再発がお約束でついてきます。

 (樹上細胞ワクチンなど他の点滴療法などの先端医療も正常細胞を傷つけず副作用や再発リスクがほとんどないですが、時間との競争を覚悟できるならビタミン点滴が比較的コストが低いと思います。何より支払いが1回ごとで済むので大金を前納する必要がありません。といっても100g投与なら現在一回23,800円ぐらいです。需要が増えれば数分の一まで持って行けるはずであり、多くの漢方薬以上の効果が出ているので保険適用すべきです。ビタミンCの製造コストは本来、一般薬物よりずっと低いです。)

保険会社の社員や元社員ならよく知っているはずですが、多くの生命保険は客にとってトータルでかなりの損になるし、ガン保険や通常の生保・損保のカバー範囲では正常細胞まで損傷し、副作用や再発が多い3大治療法(外科手術、放射線治療、抗がん剤投与)の治療費しか支払われません。ただし父の様に最初の症状が突然の進行性言語障害であった場合、自分の保有資産の額や預け先も解らなくなるので準備が必要です。個人情報保護法は時に諸刃の剣となります。

一番患者にとってより良い医療が保健適用にならないのは、多くの場合、薬事や医療利権が絡む既得権益層のためであり、日本の医師は特に製薬会社や医療業界からの情報に頼っているので、医療界そのものが医療ビジネスの餌食となっているようなものですが、水上先生や柳沢先生のように現況の改善に取りくむ医師も徐々に増えています。患者側も「お医者様信仰」を捨てて自分で情報収集して賢くならねばならないと思います。

6月28日、ラジオ体操の帰りに自分の畑を歩く父。(同月20日に告知を受けたので外出には母か私が付き添うように。)

7月半ば。ラジオ体操まで時間があるときは公園内を散策するのが習慣。

7月21日~8月10日の週3回ビタミンC点滴通院

8月11日、近所のリハビリ施設で普通に自力で歩く父。
右はこのチームを率いる理学療法士で父のラジオ体操仲間の先生。ここへ帰ってくるはずでした。


8月17日から(ここしか空いてないと言われ)2泊だけした高額個室。
2週間の入院当初、ベッドのてすりに捕まって自力で立ったり軽い補助で歩けたりしていました。食事も普通食でスタート。そしてこの部屋での歩行が最後の立ち姿となりました。


8月19日午後10時半ごろ
同8時過ぎの食事中のムセと発作・痙攣後、ナースコール。
主治医不在と言われ夜勤看護師らだけで対応。
モニタルームへ搬送。絶食強要開始。午後10時半ごろ院内担当医に電話連絡がつきICUと呼ばれる雑居部屋で点滴開始。
(院内担当医は土日水以外の9時5時勤務のみと知ったのは退院直前。しかも外来優先。救急外来の経営で成り立っている病院では入院患者は優先順位が低いことを知りませんでした。後で取寄せた他院への紹介状ではムセも痙攣発作もすべて20日に起こったことにされており、肺炎は入院前からと思われるという表記。入院時の問診およびX線やCTスキャンの後の私への医師の話とも、詰め所から最も遠くモニタ不可能だった最初の病室設定とも矛盾。肺炎は病院が16時間以上も医師の問診さえ無しで放置した間に拡大。)


翌20日午後1時頃(前夜からこの時間まで医師の診察一切無しで"ICU"放置。理由は「左手が動きすぎるからCT撮れない」。無数の看護師が見に来たが、誰も前立腺肥大の可能性を疑わず。)
ポータブルレントゲン撮影。付添人や見舞客は「危ないから外へ」と言われ
カーテンの向こうの他の7床の患者はそのまま。(隣は軽い認知症らしき歩き回る40代くらいの患者さんでした。)


20日〜9月1日。X線撮影の後やっとCTを終え、医師の診察を受け、肺炎と前立腺肥大と診断され尿管をつけて入れられた2つめ(最後の)病室。スタッフ詰所そば。エアコンからの空気が肺炎・気管支炎治療中の喉を直撃することを訴えても、吸入装置などの位置の都合で調整されず。窓は全面すりガラスで景色ナシ。QOL考慮ゼロに近い救急病院。

8時間「効果」が持続するというMRSA対策剤は、午前9時と午後6時に投与されこん睡状態におかれるため、父は毎晩午前1~2時に目覚めて翌朝まで苦しそうにうめき続け、24時間交替の付き添う私と母は1日おきに徹夜。以降、頻繁にナースコールしたのは連日深夜。激務の夜勤看護師らに負担が。


9月7日、最後の希望。100gのビタミンCが入った点滴。

9月10日
今年2月の写真を拡大。F病院入院後3日めまでこの健康な笑顔でした。
絶食させられ経口摂取していたビタミンCやケイ素サプリを断たれ、抗生剤を点滴され始めてから表情が消えました。体じゅうの筋力を奪われ始めていました。
抗生剤をバンコマイシンなどのMRSA対策剤に変更された直後からほとんど覚醒できず首が座らない植物状態になりました。
高熱と苦しさからくるうめき声だけはビタミンC点滴を再開するまで毎日続きました。





2012年8月17日金曜日

三重/芦浜 模索~原発ができなかった町で(8/16 NHK金とくより)

アメブロバージョンではiPhoneで視聴できないのでこちらにも埋め込みます。削除されれ前にぜひ見てください。


[追記 2015]動画が削除されたまま、代わりがまだみつからないので、NHKの金とくの当該ページのリンクを入れておきます。
模索 ~原発ができなかった町で~  2012年6月29日(金)午後8:00~8:43
 放送エリア中部7県


ブログ記事本文も未完成のままですが、取り急ぎコピーします:

[アメブロ記事よりコピー]

何が住民を二分し、長年互いに憎悪を募らせ、苦しみ続けるのか、ここでは原発建設計画による「交付金」にぶらさがって棚ボタ繁栄を手にしたいか、仕掛け人側の意図とその結末を理解し命と自然を守ろうとするかの構図ですが、世界じゅうほとんどの戦争に共通する構造が丁寧に描かれています。

海を守るために原発に反対した漁師の妻たちが、これほど大勢、チェルノブイリ事故前からすでにこれほど勉強し、闘っていた事を知りませんでした。

古和浦の女性グループの一員だった小倉紀子さんの言葉の多くが象徴的に311以降の私たちの状況を言い表しています。

(一番辛かったことのひとつ、毎日差出人不明の嫌がらせ郵便が届いた経験について)「こんな嫌がらせをしなければ、作れない物なんですよね」

「本当は中部電力が一番憎いはずなのに、中部電力はどっかへ飛んで行って、地元の推進派と反対派が戦っているみたい」

戦争のほとんどは、それによって利益を受ける者たち(軍需産業およびそこに連なる様々な組織や人間)が仕掛けているのはよく知られているはずですが、操られる当事者になってしまうとそこが見えなくなります。利用される当事者もそこが見えなくなり自己催眠状態になります。

この記録には、町の衰退を恐れて原発マネーで勃興を願い続けた推進派、あるいは反対から推進に転じていた人や、幼少期に津波を経験し防災を常に意識し62の国内の原発を調査した結果、福島事故まで安全神話を信じて推進派となっていた大紀町長の谷口友見さんなど、その時々の状況で変遷を遂げた人たちの事情なども描かれています。

仲間がいても反対派を押し通すことがどれほど大変であったかも、これは最初から最後までひしひしと伝わってきます。

そして、中立的立場を貫こうとした歯科医の大石琢照さんが、安全か否か以前の問題として、住民をこれだけ二分して苦しめている存在である原発という問題を取り除こうと署名集めの行動に出る点は、目的に向かう行動の指針となります。

そして、2000年当時の三重県知事の北村さんの”意外な”決断…

とここまで書いて一旦仮眠とりますので、また戻ってきます(ブログのくせになんやねんそれw)。ということで、私の駄文は置いといて、この映像、削除される前に見てください~♪ (今回はNHKに制作陣激励のメッセを送ろるつもりです。)

[コピーここまで]

2012年8月7日火曜日

オスプレイがやめられない 米・軍産複合体の実態 (キャプチャと書き起こし)

アメブロで埋込んだ動画記事「20120803 オスプレイがやめられない 米・軍産複合体の実態 (書き起こし)」のキャプチャを並べます。

まず動画(iframeバージョン)


[書き起こし、ここから]
きょう森本防衛大臣が、アメリカとオスプレイについて協議をするためワシントンに向いました。

そこで、特集です。そもそも、アメリカでも反対論がある中、どうしてオスプレイは作られ続けたのか。
その疑問に答える鍵がこちらにあります。これは22年前です。アメリカ連邦議会議事堂の前にオスプレイの試作機が着陸した時の写真です。

この前代未聞のイベントからすべてが始まりました。



写真提供NASA
[男性ナレ]
オスプレイの歴史意外に古い。
1950年代には試作機が飛んでいる。
ただ、すぐに実用化はされず、アメリカ軍が本格的に開発を始めたのは今からおよそ30年前。1981年のことだった。
そして1990年、ある春の日の首都ワシントン。連邦議事堂の前にかつて見たことのない風景が広がっていた。
オスプレイの試作機"XV-15"。
本来、飛行が厳しく規制されている議会周辺。
異例の出来事にはある議員たちの目論見があった。

 発案者の一人、カート・セルドン氏。「これがV-22」
「革命的だね」

壁には海兵隊から送られたパネルが飾られている。
我々のオスプレイの創設の父 カート・ウェルドン議員へ

[オスプレイは海兵隊に不可欠な兵器だというメッセージです]


派手なパフォーマンスは実は、彼らの危機感ゆえだった。
この頃オスプレイは開発中止寸前まで追い詰められていたのだ。

 [チェイニー国防長官(当時)、ブッシュ大統領(当時)]
中止を求めていたのは、(パパ)ブッシュ政権で国防長官を務めていたチェイニー氏。アメリカの国防政策を司る張本人だった。

冷戦が終わり、国防費の削減が求められた時代。

[ブッシュとゴルバチョフ]

(総開発費300億ドル(当時のレートで4.3兆円))
総額300億ドルと言われた開発費は、あまりに高すぎた。

 しかし、選挙区にオスプレイの製造工場をかかえるウェルドン議員にとっては、開発中止を認めるわけにはいかなかった。

さらに、オスプレイの場合、胴体部分はペンシルベニア州で、翼やプロペラ部分はテキサス州と分けて作られ、全米40州、2000の部品工場が製造に関わっていると言われる。

雇用や税収を産むだけに、パフォーマンスの効果は絶大だった。
議員たちは試作機が飛ぶのを見て、これが雇用を生むことを知り
ほとんどの人がオスプレイ開発を支持するようになりました。

 その後、立て続けに事故を起こしたオスプレイ。

ついに国防長官は開発中止を求め続けたものの、
[バージニア州1992年 政治の力学]
ついに政治の力学に敗北することとなった

[大統領選討論会1992年、クリントン&ブッシュ]

1992年、再選を目指すブッシュ大統領の対抗馬、民主党クリントン氏
「今後オスプレイなど軍事技術にもっと資金を投じる必要があります」

[ブッシュ大統領はペンシルベニア州とテキサス州で苦戦]
一方、共和党のブッシュ大統領は、主要な工場があるペンシルベニア州とテキサス州で苦戦を強いられていた。

オスプレイに反対すれば、この2つの大票田で支持は得られない。ウェルドン議員らにとって絶好の口実ができた。

「開発を中止したら民主党の”思うつぼ”だ」とブッシュ大統領に言いました。
「ペンシルベニア州で勝ちたいならオスプレイ開発に反対しては駄目だ」と

 その後も、事故を起こしながらも政治の力によって生きつづけたオスプレイ。遺族は複雑な思いを抱えている。
[兵士を載せないで…遺族の思い]

2000年、着陸訓練中に墜落し乗っていた19人全員が死亡した事故。
犠牲者の一人、ケリー・キース(享年22)さんは事故前、オスプレイの不安を家族に話したこともあったという。

家族はオスプレイが最近も事故を起こしている事にショックを感じている。

[事故で息子を亡くしたドナ・ハーターさん]
安全性がないまま誰かの子ども(兵士)をオスプレイに乗せてほしくありません。
事故をパイロットのせいにしないで下さい。
オスプレイには多額の税金が使われているから、
 軍は計画を進めないといけないのでしょうね。


[1機4100万ドル⇒1億800万ドル(約84億円)]

開発開始から30年余り。当初1機4100万ドルと言われたコストは、いまや1億ドルに。国防費の削減が求められているのは、かつても今も変わらない。

この5月もオスプレイの調達を中止する法案が提出された。

-予算オーバーで危険かる不必要な航空機に資金を出せば、教育や医療など重要な分野で予算が削られます。

しかし、選挙区にオスプレイ関連企業を持つ議員の声が今も大きく、法案は否決された


[民主党クィグリー下院議員]

オスプレイの推進派議員は超党派で団結します。
他のことではコストを重視する人でも軍事支出には目をつぶるのです


 (報道ステーション・キャスター、古館伊知郎さん)
...ということなんですが、坂本さんはどういうふうにお感じになりますか

-01:43 世界的に活動する音楽家 坂本龍一さん
やっぱりこれも原発とちょっと似てるとこがあって、本当に必要性というよりは、利権というか、利権とビジネスと政治が重なっていて、数字にしてしまって、なかなか止められない。本当は作っている人たちも、安全性に疑問を持ってるかもしれないのに、またそういう、軍の中にそういう声がありますよね。それでも歯車がなかなか止められないという、その、まあ似てますねぇ。

古館さん
確かにそうだし、坂本さんはNYにお住まいになってますけども、今出てきたアメリカのそれぞれの州の雇用を産んでいるということが、州選出議員が結束すると言うまた役どころが繋がりますもんね。

坂本さん
それは、たくさんの州にまたがっていますし、決して共和党の議員だけが交戦的という、まあ軍産利用を進めたいわけではなくて、民主党の議員も事情は同じなんですね。なんで、決して民主党が平和を望んで、共和党が戦争好きというそんな単純なことではないですしね。

古館さん
軍産複合体というと両方ですよね。でまあ、アメリカの事情、どこも一緒の事情があるとしたら、日本がアメリカに対してどこではっきり物を申せるのかという事を、本当に問われている。政治家、官僚ですね
[書き起こしここまで]

これはほんの序章、米国内の事情の一部だけです。ぜひインサイドアウト「20120801 オスプレイ配備強行日米が隠す真実とは」の見解もご覧下さい。